拡張するマンガ表現論
単著にまとめられるのを待っていたのですが、よりによって
「手塚的なストーリーマンガ」という表現空間は『GUNSLINGER GIRL』で閉じられたこととなる
http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20050324#p2
などという面白そうなところを見せられてしまったため観念。伊藤剛「手塚治虫〈以後〉のマンガ表現史 ―― 拡張するマンガ表現論」(『波状言論』2005年1月B号*1 所収)を取り寄せて読む。
リアリズムの獲得という観点から、マンガ表現史を記述するモデル(の不存在)を考察している。ストーリーマンガの検討であるから、手塚治虫『地底国の怪人』を始点に置くのは当然だろう。しかしながら、手塚から50年間に渡って紡がれてきた円環を通り抜けた、最初の栄えある存在は相田裕であった――という指摘には敬服。
私もかれこれ2か月ほど、トリエラを物語(ストーリー)の主役に位置づけて『ガンスリ』を評価できないものかと考えあぐねていたのだが、どうも伊藤を超えることは到底言えそうにない。
ただ、この論考で気になるところが1箇所あった。
マンガには、読み手に「リアリティ」を感じさせる装置が三つある。「言葉」「コマ構造」「キャラ」である。
としているところ。ここでは、斎藤宜彦がマンガの構成要素を「言葉」「コマ」「絵」としていることを比較対象として挙げている。そして、
リアリティを媒介するのは「絵」ではなく「キャラ」なのだ
として、マンガ表現史を組み立てている。私が疑問に感じたのは、絵をキャラに置き換えていることの当否である。「キャラクター」を第4要素として付加する方が、適切ではないのだろうか*2。私は少女漫画(しかも1980年代のもの)からマンガに分け入ったということもあって、文学的に漫画をみるという習性から抜け出せずにいる。私が作品論を述べる時に《物語》に重きを置くのは、こうした出自に由来しているのだろうと自己分析している。そのせいか私は、「図像」と「コマ」の価値を相対的に低く見る傾向にある。そうすると、代わりに浮上してくるのは「言葉」と「キャラクター」。それを伊藤のように3つに整理統合されてしまうと、違和感があるわけです。
伊藤は80年代後半以降の状況につき、「キャラの自律化」という表現で固有テクストからの遊離を語っている。具体的にいうと、〈委員長〉〈眼鏡っ娘〉〈ツンデレ〉などの属性の組み合わせで、キャラ萌えできる。
しかし、キャラクターを排除したところでもマンガは成立しうるのではないだろうか? それがストーリーマンガになるかどうかは不明だが。「キャラ」に焦点を絞ってしまうと、漫画史から「絵」によって語るという視点が抜け落ちてしまうような気がする*3。
ともかく、単行本『マンガ史の切断面』が出るのを楽しみにしています。
▼ 追記(3月30日)
その後も、この件について考えていたのだが、伊藤の場合には「コマ構造」の中に「絵」を含めて解釈するということなのだろう。この論考では個々の要素の概念定義がなされていないので、踏み込んだ検討をするには手がかりを欠く。