柳治男 『〈学級〉の歴史学』

 友人に、夫婦とも学校の教員をしている者がいます。以前、教育論を論議していたところで疑念が湧いてきたので、私はこう言ったことがありました。
 「学級崩壊を無くすためには、クラスなんて無くしてしまえばいいのでは?」
そのあと、彼らは声もなく黙り込んでしまいました。
 こうした思考は、私にとって突飛なものではないのです。老齢年金について議論するにあたっては、米国との比較において「そもそも年金制度を維持する必要があるのか?」という問いかけにさらされてきたからです。
http://www.jil.go.jp/kunibetu/kiso/americaP03.htm#10 (USAの社会保障制度)
 日本の義務教育制度をめぐる論議は、「そもそも論」に耐えうるだけの練度を備えてこなかったように思えます。このような問題意識を、《学級》というシステムの成り立ちに遡って解き明かそうとしているのが本書、柳治男(やなぎ・はるお)『〈学級〉の歴史学――自明視された空間を疑う』(講談社選書メチエISBN:4062583259)。
 本書ではまず、「パックツアー」と「クラス」とが同じ思想的背景から登場したことから話をはじめます。パック旅行は、19世紀の中頃、バプティスト派の宣教師による福音主義的禁酒運動に起源を持つ。その人の名は、トーマス・クック(Thomas Cook, 1808-1892)。ヨーロッパ旅行をしたことがある人なら、鉄道時刻表の出版社としてご存知かもしれません。
Wikipedia - トーマス・クック社
酒に代わる娯楽として小旅行を安全で安価な提供するにあたっては、それまでの冒険旅行から偶発性を除去し、計画性と利便性を与えることが必要であった。そのために取り入れられたのが事前制御フィードフォワード・コントロール)という発想。この事前制御によって、中世の「学問」は近代の「教育」に変化したのだとする。
 より具体的には、19世紀の英国の学校制度史を参照する〔第2章〕。ランカスター(Joseph Lancaster, 1778-1838)の発案によるモニトリアル・システム(Monitorial system)を丹念に追うことで、学級(クラス)という概念が出現するに至った過程を追う。合理的・効率的に「読み書き計算」を教授するための大量供給システムは、飲食産業(マクドナルド兄弟)や自動車産業(フォード)よりも教育産業の方が数世紀先んじていたことが解き明かされる。
 では、どうして《学級》を支えるシステム(正しくは、システムによって学校という制度が動かされていること)が見えなくなってしまったのか。それにも、英国と日本の近代史を眺めることで答える。モニトリアル・システムが限界点に達したところで、ギャラリー方式(一斉教授法)が考案される。これを全国に普及させていく中で国家による補助金支給が行われるようになり、教育効果を測定する基準を統一するために《学年》というものが生まれる。ここで、事前制御要因は能力別分類から年齢別分類へと変化した。モニトリアル・システムとギャラリー方式が合体することにより、我々が目にする《学年学級制》というものが登場したのだ〔第3章〕。
 こうした学校というシステムは供給先行型であり、「学習意欲が存在しなくとも就学を強制される」ものある(108頁)。学校という装置が機能するためには、子どもが規律に従うことを必要とする。しかし、このような機械的な装置は、子どもを引きつけることはしない。そこで、《学級》にゼロサム競争を導入することで、学習への駆動力とさせた(117頁)。
 さらに、教師を学校というシステムに引き留めておくための言説も必要であった。これを柳はフーコーMichel Foucault, 1926-1984)の権力論から捉え、教師は迷える羊(=生徒)を導く者であるという司牧関係と説明する。教育言説は宗教と同じ論理構造を備えている、という指摘は興味深い〔第4章〕。
 続く第5章では、日本における《学年学級制》の展開を考察する。児童と教師を学校というシステムに誘引するために組み込まれたものとして、大正時代における「学級文化活動」の展開をみる。そこに入り込んだのが、親鸞の同行(どうぎょう)思想ではないのか、という。《学級》は村落共同体の論理によって解釈され、自己目的化して感情共同体へと至ったのだと柳は考察する〔第5章〕。
 柳の導き出した帰結をまとめると、次のようになろうか。
 《学級》とは自明なものではない。特殊な装置(システム)である。
 《学級》は事前制御された、限界を有する機能集団である。学校には、求めても叶えられないものがある。
言説の呪縛を解き放って思考を自由にしたいとき、本書は有用な手がかりを提供してくれることだろう。学者ならではの客観的な見方が、本書を優れたものに仕上げている。
 難点を述べておくと、終章に追いやられた感のある現状分析は、言葉足らずという感が否めない。これでは批判(現場からの突き上げ)をかわせまい。歴史分析に特化して、視座の提供(どこに問題が所在しているかの指摘)に留めておいた方が良かったのではないか。


▼ おとなり書評

二つの「教師-生徒関係」が併存する制度として「学級」をとらえようとしている。すなわち、ベル=ランカスター方式が先鞭をつけた、徹底的に人格性を廃した(いわばマクドナルド式の)「システムとしての学校」の中での「教師‐生徒関係」と、個人対個人の人格的な結合形式としての「教師‐生徒関係」と。
http://d.hatena.ne.jp/june_t/20050320 (高橋準氏)