傷つける性 :: ギャルゲー的セクシャリティ

 古書店に発注していた『新現実 vol.2』(ISBN:4047213926,2003年3月)が届いた。さっそく,ササキバラ・ゴウ傷つける性 団塊の世代からおたく世代へ――ギャルゲー的セクシャリティの起源』を読む。

ササキバラ論考の要旨

1. ギャルゲーと〈わたしのリアリティ〉

  • ギャルゲーとはどんなメディアか
    • ノベル系ギャルゲーは,〈ゲーム〉としてではなく,〈ハイパー・ノベル〉として理解した方が実情をつかみやすい。それは誰かをめぐる〈物語〉なのである。ゲーム性は表面的部分にはなく,根本的なところに掘り下げられている。
  • ギャルゲーのドラマ形式
    • 〈ハイパー・ノベル〉は基本的にミステリーの形式で作られている。ストーリー進行を支えるのは,〈ぼく〉のモノローグと女性キャラとの会話。女性キャラは,自身にドラマの要素(ミステリー)を抱え込んでおり,ストーリーの進行とともに明らかになっていく。
    • ミステリーの形式であるということは,受け身のドラマということ。主人公自身がドラマを引き起こすのではない。過去に起きたことや,今まさに起きつつあることを,閉じた空間の中で体験していく。
    • ミステリーはコンピューターゲームになじみやすい(原理的に主人公とプレイヤーの同一化を指向しやすい)。ゲームでは,主人公は無色透明(からっぽ)な存在の方が都合が良い。これが,〈第三者的〉に眺めているだけでいいメディアと,〈当事者的〉に進行しなければならないメディアの差異である。
  • ギャルゲーの絞り込まれたゲーム性
    • プレイヤーに〈当事者性〉を発生させる装置として選択肢が存在する。プレイヤーの想像力に訴えかけるシンプルな創作手法は『弟切草』に始まり,『雫−しずく−』『To Heart』で練り上げられていった。
  • 選択するということの意味
    • シンプルなシステムが,最後に残した唯一のゲーム性が選択肢である。これは,シナリオの分岐という単純な役割ではなく,キャラクターに対する自分の態度を選択している(ここで,具体例としてアージュ君が望む永遠』を引用)。
    • ギャルゲーは,プレイヤーに主体性を要求する。私は,責任ある〈わたし〉として自己決定を行い,自分で選んだ〈誰か〉に対する誠実さを実行する。このとき,キャラクターが生き始める。ここに,主体的な〈わたし〉を体験させてくれる,責任という娯楽がある。ギャルゲーの癒しとは,恋愛というドラマを通じて〈バーチャル主体性〉を獲得させることでもたらされる癒しなのである。
    • 主体性の結果として痛みがある(例として,Key『Kanon』を挙げる)。
  • わたしのリアリティ
    • わたしがわたしとしてのリアリティを獲得するためには,あなたという存在が必要である。その手段として恋愛がある。恋愛は目的ではない(新海誠ほしのこえ』にも共通することを指摘)。

2. 傷つける性

  • エロゲーと内面性
    • もともとエロゲーは,女の子を性愛的に征服して充足を得ることを目的としていた。しかし〈ハイパー・ノベル〉では,女の子の内面を探り当て,それを受け止めるという形で物語が進む。それは女の子の側から見ると〈彼に私の内面をわかってもらう〉という形になる。これは,1970年代の少女まんが(おとめちっくまんが)に存在した,リリカルでロマンチックな物語だ*1。ギャルゲーは,女の子の内面を描こうとして,すでに80年代で死滅してしまった古典的な少女まんがから,そのモチーフを得ているように思われる。
    • 女性に対してピュアな恋愛感情という回路でコミュニケートしているとき,愚劣な欲情の出現はコミュニケートを阻害し,男に葛藤を生じさせる。
  • 攻略可能であるということ
    • プレイヤーである私の主体性と思われたものは,実は作り手との共犯性である。さらに,彼女たちが〈攻略可能キャラ〉であるという〈水面下のお約束〉を暗黙の了解とする共犯性もある。ギャルゲーは,女性の内面を描きながら,同時に性愛的な欲望充足の対象として女性を見つめるメディアである。
  • 傷つけうるということ
    • 女の子キャラが〈内面〉を持ち,男がその〈内面〉の存在に気づいたとき,自分の欲を発動させると〈ぼくの好きな女の子〉はそのせいで傷つく。男という性は〈傷つける性〉なのである。
    • 女の子の内面に〈可傷性〉を見出し,自分の暴力性に気づいた男の子は,もはや,無邪気にその子をくどくことはできない。〈傷つける性〉としての自覚は,男の子に性的な抑圧として作用し,葛藤を生む。
    • もっと根本的なところで,受け身の構造がある。女の子の内面に気づかされてしまうという形で,自らの〈傷つける性〉を自覚し,その結果として自分の行動が規定されるからである(根本的な受動性=遅延)。

3. 村上春樹と彼女たち

  • 内面性をもった女の子とつきあう方法
    • 女の〈内面〉という存在を意識し,彼女たちが〈第二の性〉であることに気づいた男は,自分が〈第一の性〉であることに気づかされると同時に,〈気づかされる〉という受動性において〈第三の性〉となる。男は,〈第二の性〉の影響を受けて行動を規定されるという意味で,〈第二〉の後に従う〈第三の性〉となる。
    • それは,その男が〈第一の性〉から〈第三の性〉へと移行したという意味ではない。〈第一の性〉であるというそのことにおいて,〈第三の性〉が自覚されているのだ。〈一〉と〈三〉のふたつの間で身を引き裂かれて,ポスト少女まんが時代の男の葛藤ははじまる。
    • 〈少女まんがをよんでしまった男の子〉が〈内面性をもった女の子とつきあう方法〉の答は,乙女ちっく少女まんがの中にある。男の子がすべきことは,彼女の内面をきちんと〈理解してあげる〉ことのできる自分になることである。その結果,男の子の挙動は,自分の気持ちを基準に行動する〈能動性〉ではなく,相手の気持ちを汲み取って行動する〈受動性〉へと変化する。
  • 村上春樹羊をめぐる冒険
  • 村上春樹風の歌を聴け
  • 村上春樹1973年のピンボール

4. 恋愛という物語をめぐって

5. 美少女の出現

  • 美少女という概念はいつ生まれたか
  • おたくという言葉について
  • 美少女はなぜ無敵か
    • 男の子は,女の子の中に内面という〈可傷性〉を発見する。男の子は,女の子の内面を壊してしまうことをおそれ,手出しできない。それゆえに,男の子は先回りして敗北する。
    • 〈美少女〉という概念は,男の子が女の子に敵わないことを思い知り,それをマゾヒズム的に自覚することで70年代に作り出した偶像である。
  • 吾妻ひでおが消し去ったもの

6. おたくと戦後民主主義

  • 自らの暴力性を自覚するがゆえに,その発動を〈一方的に〉抑制しようとする姿勢
  • 〈第一の性〉と〈第三の性〉の間で引き裂かれている男性の自己矛盾は,放棄しようとした暴力の預託先が存在しないことに原因がある

7. おわりに

  • ダッチワイフの〈彼女〉が〈私を受け入れる可能性〉としてそこにあり,所有することに萌え,癒される
  • 傷つく内面を持つメイドロボット=決定的な〈美少女〉。傷つくロボットは萌えキャラとして完成し,〈彼女〉の前でユーザーは決定的に〈受け身〉になる(ギャルゲー的な欲望が夢見る先にある,未来のひとつの姿)。
  • おたく的な欲望の果てにあるものは,内面的に傷つくロボット=鉄腕アトムとして,古典的な手塚治虫のイメージの内に既にある

後続書との異同

 内容の骨格は,翌2004年に刊行された新書『〈美少女〉の現代史――「萌え」とキャラクター』(ISBN:4061497189)と同じ。だが,新書では1980年代に焦点をあてて書かれており,アニメ・コミックに重心がある(本稿の第5章で扱った部分をていねいに論じている)ので,おたく第一世代(昭和30年代生まれ)が自然と検討対象となる。ササキバラは1961(昭和36年)生まれなので,著者自身の意識として語ることができる。
 新書を読んだ際に残しておいたメモには,「第4章(美少女という問題)は精彩を欠く。本書の枠組みで1990年代以降を語れるのだろうか?」と書き残してあった。実のところ,こうした疑問は先に著されていた本稿が説示しているので,見当違いであったようだ。副題にあるように,おたくのセクシャリティ特性を美少女ゲームから解き明かそうというもの。そこでは,性の揺籃期から既にノベル系キャルゲーが身近にあったおたく第三世代(昭和50年代生まれ)が念頭に置かれることになるだろう。

傷つける性〉になる者,なれない者

 そこで新たに生じた私の疑問は,連環が途切れていることである。本稿で取り上げられている作品名を見ると,おたく第二世代(昭和40年代生まれ)が中高生だった頃に影響を与えたものが脱落していることが見て取れる*2。かくいう私自身がこの層に当てはまるだけに,見捨てられたような気がしてならない*3。と,ひがんでおく。
 本稿では『雫−しずく−』(1996年,Leaf)以降の〈ハイパー・ノベル〉を検討対象としているため,それ以前にあった美少女ゲームの系譜は触れられていない。加えて,取り上げている作品数が少なく,偏りがある。これはササキバラ論考の弱点と言っていいだろう。
 elf(エルフ)が登場するのは『Refrain Blue(リフレインブルー)』(1999年,ASIN:B00008HXDJ)のみ。もし,女性を征服するマッチョな男性(すなわち〈傷つける性〉が分化する前の原初状態)の例として「同級生」(1992年,ASIN:B00008HXDK)や「同級生2」(1995年)を,作り手とプレイヤーの共犯性を露わに示したものとして『臭作』(1998年,ASIN:B000065D5U)を挙げていたら,セクシャリティをゲームというシステム内部の系譜としても的確に議論できたように思う。

 明朗快活なナンパゲームに由来する蛭田キャラはそのゲーム性、つまりシステムの要求する能動性ゆえにあきれるばかりにスケベで不遜な、無敵の男として描かれた。……私たちは蛭田キャラの性格設定をハードボイルドヒーロー以後の可能性を示す大変魅力的な要素を備えているとみなすことができるが、他方あまりに男根主義的な価値観の持ち主として(中略)容易に否定することができるだろう。
相沢恵(=佐藤心) 「『同級生3』はなぜつくられないのか」『永遠の少女システム解剖序論』所収)より引用

 AliceSoftアリスソフト)に至っては,登場すらしていないのが痛ましい。こちらから例を挙げるとなると,『アトラク=ナクア(ATLACH=NACHA)』(1997年,ASIN:B00008HUMF)が思い浮かぶ。女性を主人公とした珍しい〈ハイパー・ノベル〉であり,〈傷つける性〉たるプレイヤーの加担を考えるうえで参考になっただろうと思われるところ。ランスシリーズが『Rance4 教団の遺産』(1993年)を最後に長らく足踏みをしていたのも,前掲の『同級生3』問題と同じものに起因すると考えれば,〈傷つける性〉という自覚が生まれてきた時期がいつなのかを探ることも出来よう。
 1989年に刊行された別冊宝島104号『おたくの本』には,「おたくという第三の性」という表題の章がある。この時点では未だ〈第三の性〉については理論化されていないが,土本亜理子ロリコン,二次コン,人形愛――架空の美少女に託された共同幻想!』には,早くも「性関係の当事者になることより傍観者であることを選ぶ」という指摘が登場している。また上野千鶴子のインタビューでは「こういう男の子たちって,男であることに深く傷ついているんじゃないかな」という発言がある。そこからすると,〈第三の性〉の発見は思いのほか早いようだ。
 ゲームの系譜だけに着目するにしても,恋愛というドラマに関して『ときめきメモリアル』(1994年)からの示唆も織り込んでおく必要がある。

やはり1995年には何かがあったんだろうな……。
http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20050123/p1

 ここまで書き連ねてきて思ったのだけれど,ササキバラの示した方向性(総論)を基にしてミッシング・リンク(各論)を埋めていくのは,おたく第二世代に任された役割,なのでしょうね。たぶん。
 ササキバラ論考がストレートに当てはまるよう,節目となる1995年を15歳で迎えるには,昭和55年より後の生まれでなくてはならない。それより前に生まれてしまった(思春期を過ぎてしまった)世代は,自己のセクシャリティの起源を別なところに求めなくてはなるまい*4

傷つける性〉の居場所

 話を本題に戻しましょう。
 〈傷つける性〉という概念は大変に魅力的です。それがノベル系ギャルゲーを規律していることは,ササキバラの指摘する通りでしょう。けれど,それが物語空間を離れたとき,現実世界での行動までをも規定しているものなのかについてを語るには,私の経験値が足りない。そこで,代わりに2人の有識者の言説を引く。

 あび子あび夫先生が、昔とてもいいことを言っていた。
 「オタクは女の子にやさしいんじゃなくて、やさしくすることしか方法を知らないから、やさしくすることしかできないんですよ…」
http://d.hatena.ne.jp/kanose/20050727/cherryknights

 加野瀬未友氏から。なんか,ササキバラが〈少女まんがをよんでしまった男の子〉が〈内面性をもった女の子とつきあう方法〉として示す「粗暴さ(攻撃性)を捨てて優しくなること」の模範解答のようで,泣けてくるほど。

 オタクという人種は「肉体性」を抜きにして自分の精神活動を捉えがちなので、もっとフェチやSMについて一定の理解を持っておいた方がいいと思います。
 例えば「傷付ける性」だとか、そういったオタク用語を使わなくてもオタクの萌えについて考えることはできる筈でしょう。
http://d.hatena.ne.jp/izumino/20050727#p1

 こちらは,いずみの氏からの興味深い指摘*5ササキバラは「〈美少女〉という概念は,男の子が女の子に敵わないことを思い知り,それをマゾヒズム的に自覚することで70年代に作り出した偶像だ」という。ここで両者は内容的に接近する。ただ,その発端は男という肉体を忌避することにあるので,鶏が先か卵が先か……。

http://d.hatena.ne.jp/kanose/20050716/otakunohon (関連資料の一覧)


追記

*1:ここで,先日来取り組んでいる更科修一郎論考の再評価という作業と連結する。2000年の時点で更科は,「美少女ゲームはポルノグラフィの枠組みから発生したものだが、その論理基盤は[男と女]というセクシャリティを巡るものではなく、[自分と他人]という基準で駆動している傾向がある」ことを説いている。『そして、ひとりぼっちのふたりが残った』を参照。

*2:おたくの世代分類には,岡田斗司夫が『オタク学入門』(ISBN:4872332792)で提示した昭和式類型に従った。岡田は,それぞれを[特撮世代]→[アニメ世代]→[アニメキャラ・ガレージキット・ゲーム・声優世代]と評している。

*3:ここで困るのは,1971(昭和46)年生まれの東浩紀森川嘉一郎の存在。躊躇することなく萌えられる彼らのメンタリティは,第三世代のそれである。私(1972年生)のように,萌えを学ぶことによって身につけたオールドタイプな第二世代からすると,東や森川は突然変異のニュータイプに見える。

*4:私個人の問題としてならば心当たりがあるのですけれどね。高校1年生の時に出会ったアニメ『ガルフォース』の影響力は大きかったと思う。どのくらいかというと,しまんだきよのさん(1972年生まれ)が主宰していたファンクラブに加盟していたくらい(笑) とはいえ,OAV『エターナル・ストーリー』(ASIN:B00005HUZ2)よりもゲーム『創世の序曲』の方に先に触れていたというのは,おたく第2.7世代らしいエピソードだと思う。

*5:いずみの氏は,論者として永山薫の名を挙げている。代表的な文献としては「セクシュアリテクィの変容」『網状言論F改』(ISBN:4791760093,2003年)がある。ここで「女の子になりたい」男の子という指摘があるのだが,これは森岡正博が『感じない男』(ISBN:4480062211,2005年)において述べていることと面白いまでに合致する。その紹介は id:chunyan:20050721:1121928220 に譲る。