美少女ゲームの臨界点 :: 暮れゆく『雫』の時代

 注文しておいた本が,ようやく届いた。波状言論美少女ゲームの臨界点――HajouHakagix』(ISBN:4990217705,同人誌出版)。2004年8月刊行の評論集。折しも学会誌の原稿を書いているところだったのだけれど,気分転換と称して少しずつ読む。
 副題が〈はかぎくす〉となっていることからわかるように,葉鍵系*1に連なる作品群を歴史的に総括しようというもの。
 表紙絵に目をこらすと右側には“A I R”の神尾観鈴。左の少年は……“To Heart”の藤田浩之だろうか? 装画を新海誠が手がけているのだが,彼こそが本書の示した枠組みに終焉をもたらした人物の一人というのが皮肉である。わずか8年で駆け抜けた時代の表象。私はこの絵を,勝手に「茜雲のむこう、永遠の場所」と呼んでいる。
http://www.hajou.org/hakagix/

「どうか幸せな記憶を。」

 佐藤心更科修一郎元長柾木東浩紀による共同討議。
 本書では,『雫−しずく−』(1996年)に始まり,『To Heart』(1997年)によって完成された様式(フォーマット)に沿う表現行為を美少女ゲーム運動とする。この運動は,1998年から99年にかけて急速に豊穣さを増し,『A I R』(2000年)によって臨界点(critical point)に到達した。しかし,その瓦解も急速に起こる。早くも翌2001年,『月姫』『ほしのこえ』のブレイク,『ファウスト』系の誕生などにより流れが変化。そして『CLANNAD』(2004年4月)が最後の徒花(あだばな)であった――という史観をとる。
 つまり,すでに『雫』の時代は終焉を迎えており,我々は墓標の前に立っているのだ。それを気づかせようとするのが本書。自らが切り開いたギャルゲー評論(と,それを育んだ時代)に,自ら〈終油の秘蹟〉を行おうとする姿が涙を誘う*2
 ここに漂う悲壮感は,「1996年以前」を知らない世代には伝わらないかもしれない。私は愚鈍なので『月姫』では気がつかなかったのですけれど,『Fate/stay night』で一つの時代が終わったことを実感していました。

 ゲーム史上における位置付けですが、力作かつ大作ではあっても新しい領域を開拓したわけでは無かったように思います。奈須きのこの構築する架空世界が充実した、ということに留まるでしょう。
 構成ですが、各々のルートに入ってしまえば分岐が無い一本道であることからわかるように、3巻に分かれた紙の本に近い組み立てを取っています。むしろ本作は、本として執筆した方が主題を明確化するのに相応しい。私は“Fate”を、ゲーム(ビジュアルノベル)としての側面よりも、衛宮士郎の自己追求を描いた物語であるという点で評価します。
http://d.hatena.ne.jp/genesis/20040512/p1

 あいまいな書き方をしていますが,率直に言ってゲームとしての“Fate”を褒めてません。こんなの前時代の小説じゃないか,ギャルゲー表現としては新しいものなんか無い――と。この文を書いた時は,未だ戸惑っていたんですよね,従来とあまりに違う異質さに。どうしてゲームなのに本やアニメと同じことをやるんだろう,って。念のために言っておくと,美少女ゲーム「ではないもの」としてならば,私も“Fate”は面白い作品だと思ってますよ。それで,これは3冊の本であるものとして評価を進めたものです。
 それが今回,ようやく言語化できる手だてが見つかりました。つまり,既に時代は次のフェーズ――本書の表現によると「ゲームのような小説のようなゲーム」の時代へと移行している。時代が戻ったのではなく,〈美少女ゲーム運動〉の反動を踏まえて次の段階へと進んでいた(それを私は,1980年代後半の復権かと誤解していた)。“雫の時代”の価値観で語ろうとしていたのが,そもそもの間違いだったわけです。〈美少女ゲーム運動〉によって育まれたものは,膨張し,拡散しており,特定のジャンルを成立させるものとしての機能的役割を終えていた*3
 もちろん“Fate”には〈美少女ゲーム運動〉から引き継いだもの――例えばキャラクター指向などがありますから,断絶があるわけではない。ただ,リアリティを伝える(私が責任を引き受ける)ための手段として選択肢が存在しないし,シナリオには〈弱さ〉というモチーフも登場しない*4
 思えばその前の3年間,『痕−きずあと−』的な要素を残す『月姫』と,シナリオ構造をメタな視点で見る『歌月十夜』しかやっていなかったのです。『AIR』によって美少女ゲームの極み(限界)を突きつけられてしまって以来,急速に興味を失ってしまっていて。その点,東らの悲壮感を(感覚的にではありましたが)同時代的に受け止めており,本書の枠組みには賛同できます。
 常々言ってますが,私はオタク第2.7世代。オタク第3世代が享受すべきものは,遺伝子の中に組み込まれてはいないので,理解と解釈によって咀嚼してからでなければ摂取できないのです。間違っても『ファウスト』なんて読めない。『イリヤの空、UFOの夏』も途中放棄したまま。この先は“雫の時代”の残滓をすすりつつ,細々と語り部として記憶を紡いでいくことにしようか……*5

美少女ゲームの起源」

 ササキバラ・ゴウ(1961年生まれ)へのインタビュー。本書は,ササキバラの提示した〈傷つける性*6が思想的バックボーンになっていることが確認できる。先日書いたコメント*7と同じような観点から東浩紀が質問を発しており,私の見方が的はずれなものになっていなくて安心しました。
 興味深かったのは,姿の見えないオタク第二世代について。〈美少女ゲーム運動〉では作り手の立場にオタク第二世代が居て*8,それを第三世代が消費している――という構図だという。自分と同世代に位置している人達(昭和40年代生まれ)が作り手に回っているというのは盲点でした。私は,誰が書いたかではなく,どんなことが表現されているのかに興味が向くので,クリエイターのプロファイルには注意を払っていなかったのです。

「『雫』の時代の終わりから」

 原田宇陀児(はらだ・うだる,1973年生まれ)へのインタビュー。
 ササキバラ論考〈傷つける性〉のそもそもの起源は『WHITE ALBUM』にある。その原田はというと,『雫』に惹かれて高橋龍也へのリスペクトを表明した。〈美少女ゲーム運動〉を『雫』の時代とも呼び替えるならば,まさに時代の申し子といえる。
 聞き手の佐藤心(1979年生まれ)が無邪気な生徒に見えるのは,私が年老いたオタクであることの証明でしょうか(泣) 図らずも佐藤は,オタク第二世代と第三世代の断絶とを明確化させている。全国各地のコミュニティはローカルな小集団ごとに活動していて,「オンリーイベント」など無くて,萌えとエロには区別があって,ぷに絵が異端視されていた――ということを参照できるように残しておかなくては,後の世代が「昭和70年代」,すなわち私たちを育んだ十年間の評価を誤りかねないという危機意識がもたらされる。

「時代が終わり、祭りが始まった」

 シナリオライターである元長柾木(1975年生まれ)による回想。作り手であるだけに「同級生」(1992年,elf)から考察を書き起こしており,『To Heart』を重要視するなど,捉え方が他の論者と異なっているところが注目に値する。
 そして驚くべきことを告げる。『君が望む永遠』(2001年,アージュ)で既に『雫』の時代は終わっていた,というのだ。元長に言わせれば,死したる者への「告別式」が『CLANNAD』だと。そこで提示されるのが,題名にある「時代が終わり、祭りが始まった」という歴史観である。簡単にまとめると,次のようになる。

製品型
ビジュアルアーツVisualArt’s)方式,スクリプト志向
祭り型
ちよれん*9方式,アニメ志向

この見方が面白い。『君が望む永遠』(あるいは『月姫』)を,仕掛けられた〈祭り〉によってヒットした最初の作品とする。そして『君望』が,『雫』や『ONE』のような〈作品〉としての美少女ゲームを抹殺したのだ――という。〈祭り〉型に連なる流れに『D.C.〜ダ・カーポ〜』『マブラヴ』『斬魔大聖デモンベイン』『月は東に日は西に』(いずれも2003年)があり,『Fate』がとどめになった,と見る。
 こんな面白いこという人物――業界の流れを内側にいながら覚めた目で見ている元長柾木とは何者だろうと思ったら,『フロレアール』(1999年)の作者でしたか……。この時期,ギャルゲーから身を引いていたのに,たまたまこの作品だけはプレイしていまして。表層部(のかわいらしさ)と深層部(の不条理さ)の落差に驚いたことを強く覚えています。なるほど,メタ好きの東浩紀が着目するわけだ。私も,ここまで来たらとことん突き合ってやろうと思い,『未来にキスを』(2001年)をMKに注文してきました。

「萌えの手前、不能性にとどまること――『AIR』について」

 東浩紀(1971年生まれ)による『A I R』の読み解き。第一部を「父の不在」*10,すなわち,国崎往人観鈴&晴子と接近して家族になろうとする(観鈴から見れば父親的な存在になろうとする)が失敗する物語,と把握する。そして第三部を「プレイヤーの不在」,つまり,カラスの“そら”として傍観者であることを余儀なくされる物語と位置づける。このようにキャラクターとプレイヤーの2つのレヴェルにおいて挫折させられることにより,より強く無力感は私たちのものとして認識させられる。この逆説的な仕組みを「メタリアル・フィクション」であるとする論考。

「『雫』の時代、青の時代。」

 更科修一郎(1975年生まれ)の文。
 題名の「青の時代」って,ピカソ――じゃ変だな。三島由紀夫ですか? 過剰な自意識が破滅を導く様を綴った物語。だとしたら,ずいぶんと自虐的かつシニカル(冷笑的)です。
青の時代 (新潮文庫)
 前半は,更科が美少女ゲーム業界へと関わっていった時期の自叙伝。面白いのは共同討議の方にあって,「加野瀬未友というヘンな編集長」は「第一世代の言論が面白くないから,第二世代の言論を取り入れたいという,1.5世代的な人です」という説明があったりする(116頁)。
 後半は非常に鋭い指摘を含む。本当に面白いのはこちら。他の論者は「なんとなく感じているけれど上手く言葉にならない」ことを書いているが,更科は思いもよらないことを言ってくれる。

  • To Heart』は,オタク的に先鋭化した[物語]たる『エヴァ』に対する保守反動(=1980年代ラブコメの正統な後継者*11)である。
  • Kanon』までの短い期間に,〈零落したマッチョイズム〉と〈少女幻想〉*12が融合した「乙女ちっくイデオロギーの楽園」が構築された。
  • 〈零落したマッチョイズム〉とは,主人公が社会と戦って成長するマッチョイズム(=大きな物語)をノイズとして嫌悪する態度である。
    • これに対し,本来のマッチョイズムを体現した作品の例として,小池一夫傷追い人』がある。ここでは,主人公のヒーロー性を強調するためにハーレムが作られた。この系譜に『月姫』や『ガンスリンガー・ガール』を位置づけることができるが(!!),遠野志貴やジョゼがマッチョな行動を取ることはない。
  • オタクというトライブ(部族)を支えているのは,社会と切り離された楽園願望である。二次元の少女から社会性というノイズを剥ぎ取ることで,恋愛という幻想は純化され,楽園は強固になる。
  • 乙女ちっくイデオロギーにとって,[プレイヤー=男性=主人公]もまた少女を傷つける加害者であり,ノイズである。
    • A I R』とは,少女の内面という楽園を守るために男性が次々と消去され,終局的には主人公の存在すら排除してしまう過程を描いた作品である(乙女ちっくイデオロギー先鋭化
  • 先鋭化に耐えられないユーザーは保守反動の動きを起こす(オタクナショナリズム*13)。その流れは二つ。

 このあたりは,クラクラするほど素敵です。

「すべての生を祝福する『AIR』」

 佐藤心による。どうしても見劣りがしてしまう。

まとめ

 そこそこ自分たちのことを語れるだけの能力と自覚を身につけたオタク第二世代が,後ろを振り返って「さようなら」と言うための本です。もちろん,BGMは『鳥の詩』で。2004年に無理にでも切断面を入れることで“あの時代”を特別なものと切り離し,純粋さを保とうとする潔癖主義,純潔志向な態度だったりもしますけれど。

 そこまで退却的な態度を取らない人でも,現在オタクというトライブが置かれている状況を見渡すために有用な文献かと思います。特に,更科修一郎元長柾木は,有益な視座を提供してくれる。分断など起こっていないとするにしても,どこが接点として機能しているのかを考える素材になる。
 それにしても,〈美少女ゲーム運動〉という名称については,誤解を生みかねないと危惧します*14。正しくは〈少女に内面という可傷性を発見した童貞たちがゲームの中に生きる美少女キャラクターに乙女ちっくイデオロギーの楽園という物語を仮託し自らは敗走する運動〉のこと,なんですが……。つまり,この枠組みに沿わない[美少女ゲーム]も脈々としてあるので,困惑させてしまう。これは,別な名称を与えた方がいいでしょうね。《はかぎくす症候群》(hakagix syndrome)などでは,いかがでしょうか。思えば,私たちはあまりに病んでいたから。
 それにしても,本書に言及している人が少ない(2,000部が出ているようですけれど)。面白い本なのに……*15


追記(2005/08/11)

  • http://d.hatena.ne.jp/cogni/20050809/1123519761
    • 認知科学徒留学メモ :: インテリオタのための教養としてのエロゲーWindows時代に入ってからの作品史を種類別に整理している。それ以前の御三家時代(elf+アリスソフトD.O.)は,そろそろ記録の整理に入らないと誰も言及しなくなってしまいそう……。私見としては,「泣きゲー」のようにプレイヤーの受け止め方によって分類する方法だと,1990年代前半におけるゲームシステムの変化を捉えられなくなるのではないかと思います。

*1:いちおう説明しておくと,LeafそれにKeyという2つのソフトハウスを指すスラング

*2:ここの主語は,東浩紀。他の参加者は,大枠で賛成しつつも,微妙に距離を置いている。

*3:それをササキバラへのインタビューでは,1970年前後において「ジャンルとしてのサイエンス・フィクション」が「価値観としてのSF」へと捉え直されていく状況になぞらえて説明されている。

*4:これは,本書の出版後にブレイクした『ひぐらしのなく頃に』で顕著だと思う。

*5:余談ですが,私は1994年から96年まで,PC-VANパソコンゲームSIG(jGAMETHEORY)でSub-OPをしておりました。しかも,90年代前半に主流だった過激な性表現を重視するグループとは反対の立場を取り,シナリオ性の高い作品を評価をするレビュワーとして活動していた。そんなわけで,“雫の時代”が幕開ける瞬間を見ていた証人だと思う。2001年1月にPC-VANがサービスを終了して“古巣”を失ったことも,美少女ゲームへの関心を削いだ一因。

*6:新現実 vol.2』(ISBN:4047213926,2003年3月)所収。

*7:http://d.hatena.ne.jp/genesis/20050728/p1

*8:例として,高橋龍也麻枝准原田宇陀児奈須きのこ元長柾木らの名を挙げている。

*9:千代田区に本社を置くアージュ,オーバーフロー,ニトロプラスの連合体。

*10:東の言う「父の不在」とは,神尾家に父親の姿がないといった意味ではない。フロイトにいう「エディプス・コンプレックス」に由来するもの。『新世紀エヴァンゲリオン』において,シンジがゲンドウ(家父長)に対して抱く葛藤を想起してもらうとわかりやすいかと思う。

*11:http://d.hatena.ne.jp/cuteplus/20040921/p3 に,更科による補足がある。

*12:1970年代後半の〈乙女ちっく少女まんが〉に込められていた性抑制的かつ内向的な価値観。更科による「N.C.P. システム化された幻想に対する違和感と、誰かを思い出せない理由。」あたりを参照のこと。

*13:関連して,http://d.hatena.ne.jp/cuteplus/20040611/p1

*14:「オタク公民権運動」を意識しての命名なのだろうとは思うのですが……

*15:本書を面白いと思うかどうかは,『WHITE ALBUM』への評価で決まるのかなぁ。私は,あの痛みが好き(それも澤倉美咲&緒方理奈シナリオの)。Leafの作品で,最も高く評価している。