フロレアール

 昨日,元長柾木との関連で触れた『フロレアール 〜すきすきだいすき〜』(13cm,1999年7月)。
 なんか「すごいことをやろうとしていた」ことだけは強く覚えているのだけれど,細部を思い出せなかったので,ざっと読み返してみる。
(この先はネタバレがあります)
 主人公は灯台守り。舞台はフランスの片田舎。人里離れた場所に,ヒロイン(メルン)と2人で暮らしている。
 制作者自身が攻略チャートを発表している。これを見ると流れが分かるのだが,エンディング数は6つ,実際には3つの場面で構成されている。
http://13cm.jp/support/flocapt.html

  • 1)日常シナリオ
    • 主人公と少女がプラトニックな関係にある世界
  • 2)非日常シナリオ
    • 主人公と少女が淫靡な関係にある世界

 シナリオが進むに従い,世界観に齟齬が生じてくる。その発端は,誰が外出するのか。(1)では主人公が出かけるのに,(2)ではメルンが買い物に出る。そこから徐々に世界は綻(ほころ)び始める。

  • 3)超越シナリオ

 そして,主人公は「多重化された世界」の横断を始める。
 この作品の特質は,主人公(プレイヤーキャラクター)が並行する物語について,シナリオ内で語り始めるところにある。さらには「世界から物語という特権を剥奪してやろうじゃないか」と,自ら物語装置を破壊しようと試みる。
 前年に発表された『ONE〜輝く季節へ〜』へのリスペクトを強く感じる作品。だが,結果としては上手くいっていない。「フォルキシア」という独自のアイデア要素と〈哲学的〉とも評される文体の組み合わせで,無難なところに落とし込んでいる。その意味で言うと,商品としてのバランスは良い。シナリオを読み終えたカタルシスも与えられる。
 だが,いま振り返ってみるとメタ視点については“煮え切れていない”印象を受ける。持ち出して使ってはみたものの,最後は「メタなんかどうでもいい」ということになり,「きみとぼくのセカイ」に《らぶらぶ》の引力で回収されてしまっている。『フロレアール』が歴史の中に埋没してしまったのも致し方ないかな,というところ。

▼ 感想集 (構造について言及しているところを中心に)