「萌えの入口論」短評

http://www1.kcn.ne.jp/~iz-/man/enter01.htm
 いずみの(id:izumino)さんによる「萌えの入口論」。
 一読したところでは欠点が見えてこない。多方面に目配りが行き届いている。永山薫へのリスペクトを表明しているだけあって,特にセクシャリティの議論が手厚い。
 特に重要なのは,第3章「梯子から内面へ」だろう。不正確とのそしりを受けることを覚悟で整理すると,

  • キャラクターには,内面への「入口」がある :: 萌え要素
  • 〈ぼく〉は,入口に辿り着くための「梯子」を持っている :: 萌え属性
  • 萌えキャラの内側には,〈ぼく〉が入り込める「空虚な空間」がある :: 投影
  • 萌えとは,「他者に入口を作って,その内面に入る」ことで得られる愛情を意味する

このように把握することによって,キャラクターとオタクを同時に〈萌え〉の俎上に載せているところが,この論考の強み。
 ただ,引っかかったところがありました。

 エロ妄想を手掛かりにした「萌え」が流行してくると、更に今度は「エロさの無い萌え」(これを狭義の「萌え」だと定義することも多く、だからスラング的には「純粋な萌え」とでも呼ばれるのだろうか)というものが新たに出現してきた。これは「メカも無く、男性の居場所も無く、エッチな要素も無いのに、何故か男性に消費されてしまう」新しい美少女の形だった。

 ここなのですが,私とは発生順序の理解を異にします。いずみの論考の中では,やおいボーイズラブなどの性倒錯(トランスセクシュアル)まで踏み込んでいるのですが,〈少女まんがを読んだ男の子〉については弱点になっているように思われるところ。すなわち,1980年代中葉に〈乙女ちっく少女まんが〉の流れを汲む作品*1に触れた男の子たちについて。――要は,オタク第二世代である私のパターンのことなんですが(^^;
 もっとも,これは時代を遡ることになるので除外されているのは致し方ない。しかし,これを「新しい美少女の形」とすることには疑いを挟んでおきたい。「新しい美少女消費の形」と言うならば差し支えないのだけれど。
 今を去ること20年,僕らは懸命に梯子を作って垣根の向こうを覗き見し,〈少女まんが〉に住む少女を発見した。そして,〈ぼく〉はガラス越しに少女を眺めていた。侵すべからざる少女の〈内面〉へと立ち入ることなど出来なかったのである*2
 少女まんがを受容してから二度の世代交代が起こり,度重なる消費の末に辿り着いた場所は出発点だった――そういうことなのではないでしょうか。ただ,投影が為される場所や内容は変化していることは間違いないでしょうけれど。
 キャラクターの話に戻すと,「空虚な空間」を取りすぎてリアリティを失ってしまう(キャラの内面が希薄になる)ことを防ぐために,「対象が持つ人間らしさ=リアルな他者性」によるバランスを持ち出している。これもまた,投影の場所を〈萌えキャラ〉の内側に置いたことの影響でしょう(スクリーンが外側にあるならば必要ない)。立論に当たって苦心された跡が見られます。
 しかしそうすると,内面に立ち入る隙を示さないキャラクターに対する萌えは起こりえない,ということになる。いずみのさんは「戦闘美少女」を提示して一応の解決を試みている(あるいは梯子を手に入れた後の問題として)。だが,少女が女性性を保持したまま,男性の視点を経ずに提示された場合,ただひたすらに受領するだけであっても生ずる〈萌え〉というのはあるのではないだろうか。
 これにつき,第4章の「入口論から出口論へ」では『マリア様がみてる』における「男性の脇役」を引き合いに出し,男性が男性性へと帰る「出口」について必要性を示している。しかし,本当に出口は必要なのだろうか。ここで先の問いかけは,入口から先まで踏み込まなければ〈萌え〉にはならないのだろうか――と,言い換えることが出来る*3。このあたりは,『赤毛のアン』や紺野キタひみつの階段』を巡って論じると面白い話題になるかと思う。
ひみつの階段 (1) (ファンタジーコミックス) ひみつの階段 (2) (ファンタジーコミックス)


 感想を添えておくと,「参りました」としか言いようがない。
 論旨から離れたところでは,萌えに接する自分の立ち位置の隔たり具合がわかりました。もともと私は原典主義者で,パロディには徹底して否定的でした。その影響は未だに残っていて,同人誌でもオリジナル性の高いものを評価する傾向にあります。そこへ,

 他人による二次創作作品に触れる、という行為も「萌え」にとっては重要な入口として作用する。つまりその場合、二次創作者の視点を利用することで対象への手掛かりを得ているのである。
第2章 「「視点」が生む入口の重要性」

というような享受の仕方を提示されると,面食らってしまいました。これだと,〈ぼく〉の内側にも他者を投影する空間が広く確保され,次第に没個性化しますよね……。


 最後に情報提供を。

 その正確な時期は定かでないが、オタクの性生活の大革命があるタイミングにおいて巻き起こったことは間違いない。
第3章 「「萌えの世界」に架けられた梯子」

 これは1992年における『美少女戦士セーラームーン』放映がきっかけである,として構わないかと思います。1989年の“M事件”からはじまるオタク氷河期が終わった記念碑ですから。また,パソコン通信を通じて話題になっていった最初の作品でもあるし*4。翌93年には「ふゅーじょんぷろだくと」が,エロパロ同人誌を集めて商業流通に乗せていますが*5,キャラクターを性的に消費する視線が広まっていった表れでしょう。そこへ『赤ずきんチャチャ』『プリンセスメーカー』が追い風として作用していたように記憶しています。


追記

  • id:REV:20050819#p1
    • かがみあきらは,〈少女まんが〉を解釈・分解・再構成して〈男の子〉でも理解可能なものにしたという意味で交点に位置しており,同列ではなく特権的な存在だと思うん。

*1:具体的には,わかつきめぐみ岡野史佳谷川史子など。

*2:ササキバラ・ゴウが言う〈傷つける性〉を,私はこのような文脈で理解している。

*3:いずみのさんは総論で「キャラクターの内面に入る為には、作り手側が用意する「入口」が不可欠である」としている。クリエイターの思考では,このようになるだろう。しかし,受け手たる〈ぼく〉自身が入口を探す,という能動的な楽しみ方の余地を失わせてしまうのではないかと危惧する。

*4:「同級生」が発表され,ソフ倫が設立されたのも1992年。

*5:『ルナティック・パーティ』(第1巻:ISBN:4893931296)。それ以前には『シュラト』『トルーパー』『キャプ翼』といったやおい系が同社の主力商品であった。余談だが,この第8巻(ISBN:4893931741)に載っている大塚ぽてとまつおゆりこ名義)や御形屋はるか(A・KI・RA名義)の作品が気に入っているもので,たまたま手元に残してあった次第。そんなわけで,本日の引用書影に。