『テヅカ・イズ・デッド』をめぐる逡巡

 昨秋の発売直後に買って読んだものの,途方に暮れていたのが伊藤剛id:goito-mineral)『テヅカ・イズ・デッド――ひらかれたマンガ表現論へ』(ISBN:4757141297)。
 平易な文章で書かれているのに,どうにも理解できないでいた。昨日,文学部の院生が開く読書会での題材に取り上げられていたので,討議に参加させてもらった。3時間ほど話し合って,ようやく着眼点らしきものが見えてきたので,備忘録として書き残しておくことにします。


 この本が提示したマンガの分析枠組みは,次の2つ。

後者については,別な参加者が論文のネタにしているところのようなので,ここでは触れないでおきます。
 端的に言ってしまえば,概念の不確定性射程範囲の不明瞭さが本書の分かりにくさを生んでいる理由でしょう。
 例えると,鍛冶師が多機能スイスアーミーナイフを売り出したけれど,刃の取り出し方に悩む構造をしているうえ,いったい何を切るのに使えばいいのか対象がわからない――という感じ。竹林の熊さんは取扱説明書を書き,東方の賢者は「コンニャクだって切れますよ!」と助言をくれているのだけれど,当の職人は「刺身包丁です」と言って譲らない……。でも私は,とにかくこれでケーキを切ってみたいん*1
 あぁ,かえって分からなくなりましたね(笑)
 つまり,分析枠組みに用いるツールとしては魅力を感じるが,非常に使い勝手が悪いのでツールの強度を再検討する必要があり,そのうえで実際に使ってみないとツールの有効性は検証できない,ということです。
【1】
 まず適用しようとする範囲が狭すぎることについて,から。伊藤は「キャラ/キャラクター」は図像に由来するものであるとの見解を取っていることが問題となります。『ユリイカ』2006年1月号(ISBN:4791701429)掲載のトークイベント(2005年10月29日)にて東浩紀がこの点を指摘し,「キャラ/キャラクター」をライトノベルに適用できるのではないかというのは順当な批判でしょう*2。しかし,この時点で伊藤は反応を返しておりませんでした。『論座』2006年2月号掲載の対談においては「マンガのような図像だけでなく,文字表現などが喚起するものもある」と態度を軟化させているようですが……
【2】
 さて,そうなると「キャラ/キャラクター」が拠って立つものが疑われてきます。「キャラ/キャラクター」概念は,本当に図像から生じてくるものなのでしょうか? 考えてみると,伊藤がマンガの構成要素を

「キャラ+コマ+言葉」

にしたことが分かりにくさをもたらしている根源的な原因なのかもしれません。マンガの構成要素については従来的理解である「絵+コマ+言葉」のままで良かったのではないでしょうか。こちらは紙の上にインクで表される物質的な要素として,すっきり整理できます。
 これを映画で考えてみます。映画の構成要素は「映像と音声」ですが,伊藤の提起する「キャラ/キャラクター」であるとか「キャラの自律化」というのは起こりうるのではないでしょうか。構成要素のレヴェルにおいて,無理をして「キャラ」を持ち込む必然性は感じられないのです。小説との比較では,これがより顕著に意識されます。「キャラ/キャラクター」で伊藤が論じようとしているのは,構成要素とは別な次元での事柄だったのではないでしょうか。他の表現媒体と比較して眺めることによって,「マンガ固有の独自性」である部分と「マンガ表現の現代的特色」である部分とが相対化できます。
【3】
 伊藤がマンガの構成要素の変更について述べている箇所(63頁)を,もういちど読んでみます。すると,極めて強い物語の忌避が見て取れます。これがあるがために,マンガという領域の内側でもツールとしての使い勝手の悪さが生じるのです。「キャラの自律化」は,物語からも生じるからです。例えば,決めゼリフや特有の語尾などは図像に由来しない〈記号〉であり,物語の中に存在するものと思われます。
 ある参加者からは,キャラとキャラクターを切り離しがたい私小説的な作品(例として挙げられたのが吾妻ひでお失踪日記』)であるとか,絵(キャラ)が戯れているだけで物語(キャラクター)を持たない実験的な作品を本書の枠組みでは把握できるのだろうか,という疑問提起があったことを書き添えておきます。
【4】
 このように考えてみたときに発生する課題は,図3-5(117頁)に典型的に現れます。「時間継起性を図像が保持」するとありますが,保持する主体は〈キャラ=記号〉ではないでしょうか。ただ,そうするとキャラを論じるためにキャラを用いるというトートロジーになってしまいます。
 付言しておくと,「時間継起性」とは何なのかについて意見交換したのですが,分からずじまいでした……。
【5】
 キャラは「プロト(前)キャラクター」である,というのも良くわからないところです。「キャラ前置」があるならば「キャラ後置」もあるだろう,という疑問が湧いてきます。すなわち,「データベース→物語」「物語→データベース」という双方向性との関係がわからない。
【6】
 ツールの実証的適用についても若干の疑問を呈しておきます。『GUNSLINGER GIRL』のトリエラを引き合いに出しているのですが,「人間/キャラ」を説明するために義体を持ち出したのは分かりやすい例ではあります。しかし〈亜人間〉という形で論を進めてしまうと,「キャラ」についての理解を狭めてしまいかねないことが危惧されます。例えば,変装(例に出たのは怪人二十面相)であるとか多重人格であるとかを論じようとする場合です。やはりここでも,キャラの由来を図像に依拠しているために,「内面」や「感情」を俎上に載せられなくなっているように思われます。
【7】
 最後に「手塚治虫という円環」について触れておきます。円の「起点/終点」を「モダン/ポストモダン」という形に対応させて論じているわけですが,そのせいで〈円周の向こう側〉についての検討が手薄になっています。本当に円環になっているかどうかは,途中を繋いでみなくてはわかりません。例えば,テヅカ後期(1980年代前半)の出来事であるが,手塚治虫という軸線上では登場しない〈乙女ちっく少女まんが〉の分析において,本書の示した分析枠組みは有効に機能するものなのでしょうか?
 せめて伊藤剛には,手塚治虫スターシステム*3を論じてみていただきたいと思うところ。私のように理解力の乏しい者にとっては,考察を進めるための手がかりが足りないのです。


▼ 関連資料(直接に言及していただいたもの)

*1:私の認識不足でなければ,1980年代後期の少女まんがについての考察が,マンガ研究という分野では抜け落ちているようです。時期的には,柊あおいが乙女のバイブル『星の瞳のシルエット』(1985年)を描き始めてから,原作版『耳をすませば』(1989年)を送り出すあたりまで。具体的な作家としては,わかつきめぐみ谷川史子岡野史佳など。特徴づけるならば,等身大の少女と少年が日常を繰り広げるなかで関係性を形成していく〈ガール・ミーツ・ボーイ〉もの。マンガ研究の中では顧みられることが少なく,カテゴリーに呼び名も付いていないのですが,ギャルゲー表現(特に葉鍵系)の源流は此処にあると思うのです。両者の接続は,更科修一郎に先に言われてしまいましたけれど(更科「『忘却の旋律』序論――からっぽの概念を忘却することなく、貫く矢を放つために」『「戦時下」のおたく』(ISBN:4048839292)149頁)。現在において新井葉月山名沢湖が「大きなおともだち」のアンテナに引っかかってしまうことの説明にもなるでしょう。

*2:現時点では,「[キャラ/キャラクター]概念の可能性」が,最も有効な本書のサブテキストです。東が『動ポモ』の枠組みに載せて構築した修正モデルの方に魅力を感じます。

*3:Wikipedia - スター・システム