〈脱セカイ系〉の諸相 ―― 相田裕 『GUNSLINGER GIRL』〔7〕
相田裕(あいだ・ゆう)『GUNSLINGER GIRL』第7巻(ISBN:4840235325)を読む。
前巻において義体の〈二期生〉として登場したペトルーシュカ(とその担当官アレッサンドロ)。この新たなフラテッロによって,作品の方向性が変化を起こしてきています。第6巻の段階では,ずらすにしても「フラテッロの順列組み合わせ」に対し「これまで無かったフラテッロの関係」を加えることでの多様化を試みていくのかと思っていたのですが……
テーマ設定(とその追い掛け方)についても大きな転回を図ろうとするのが第7巻。物語を動かす駆動力(ドラマツルギー)という基層レヴェルにおいての位相転換を試みているように看て取れる。従前繰り広げられてきた〈戦闘〉に対し,初めて明確な動機が作中の当事者から示されます。これまで仄めかされるだけであった「クローチェ事件」が,物語の基底として説明づけられる。
このように,物語を動かすものとして〈社会性〉がはっきりと打ち出されてくると,改めてガンスリのテーマとは何かを考え直さざるを得ない。第4巻あたりの時点では,セカイ系の枠組みを踏まえながらも型を崩していく作品として『ガンスリンガー・ガール』はあるのかな,と思っていたのです。それはあたかもミステリの分野において,〈新本格〉を前提としつつも形式を逸脱した〈脱格系〉が登場したかのように。
- http://d.hatena.ne.jp/genesis/20050426/p1 (拙稿:「ガンスリンガー・ガールの《セカイ》」)
- http://d.hatena.ne.jp/genesis/20060518/p2 (拙稿:「老いたジャンル〈新本格〉から見えてくるもの」)
ところが第7巻に収録されている第35話“Lingering Hope”は,『ガンスリ』という物語が〈セカイ系〉の枠組みに属することを拒否した転回点ですね。第5巻の時点までなら「敵味方に分かれたヘンリエッタとトリエラが始めた撃ち合いは全面抗争に発展し,関係者はみんな死にました。完」という結末もありえたと思うのですが。あるいは古我望と組んで製作した『BITTERSWEET FOOLS』のように,物語の中核に位置していたはずの謎を残したまま終幕を迎える――とか。
- http://d.hatena.ne.jp/genesis/20050603/p1 (拙稿:GSG第5巻の寸評)
- http://d.hatena.ne.jp/genesis/20051227/p1 (拙稿:GSG第6巻の寸評)
- http://d.hatena.ne.jp/genesis/20050319/p1 (拙稿:BSFレビュー)
- http://d.hatena.ne.jp/genesis/20051228/p1 (拙稿:BSF-GSG 関連年表)
それが今,『ガンスリンガー・ガール』は「伝統的な普通の物語」になろうとしているように感じられます。作者の相田裕は,同人誌版『GUN SLINGER GIRL collection 2』(2002年夏)において次のようなコメントを残していました。
もともとこの話のコンセプトは「二人組がそれぞれ会話する」だった
私は自分の作品を振り返って「大人になる前に死んじゃう運命の短命系が多い」ってことに気づきました。
結局 相田は《少女群像モノ》が好きらしい
これが,商業誌連載開始時における〈作者から見た作品の姿〉でした。第5巻までの〈第一期〉で相田裕は,当初の意図に沿って目的を達成したと言って良いでしょう。ピノッキオをめぐる一つのエピソードが終結したところで物語を引き継いだペトルーシュカですが,ともすれば彼女は作者の思惑を超えて動きだし,作品が依って立っていた構造そのものを突き崩してしまうのかもしれません。
■ ストラヴィンスキーのバレエ音楽「ペトルーシュカ」
人形使いが3つの人形(ペトルーシュカ、ムーア人、バレリーナ)に命を吹き込むと、それぞれが生き物となって、動きだします。そのうちにペトルーシュカとムーア人は、バレリーナに恋をします。2つの人形はバレリーナを取り合いますが、最後にはムーア人にペトルーシュカが殺されてしまいます。(中略)このバレエのストーリーは、思いがかなわず惨めに死んでいく、というその時代のロシア農民の姿を暗に表現したものだとも言われています。
http://www.yamaha.co.jp/himekuri/view.php?ymd=19990613
そういえば,相田裕とはお友達であるところの高野真之が描く『BLOOD ALONE』も,第3巻(ISBN:484023499X)で同じようにセカイ系的な枠組みを途中から崩しにかかっていました。
■ 涼宮ハルヒの憂鬱
ジャンルとしてはヒロインであるハルヒの気分次第で世界が変わるので流行のセカイ系と言えなくも無いが、「退屈な日常」(であるが故に変容させたがっていた)をハルヒがいかに受け入れていくかというのがシリーズ的な話の大筋なので、むしろ脱セカイ系(或いはごくありがちなビルドゥングスロマン)と呼ぶべきかも知れない。
http://d.hatena.ne.jp/yao/20060716
そろそろ《脱セカイ系》を論じるための素材が出揃ってきたところなので,評論の題材としては旬なのではないでしょうか。
▼ おとなりレビュー
▼ 関連資料
- http://www.so-net.ne.jp/e-novels/hyoron/genkai/021.html (限界小説書評|笠井翔)
- http://www.so-net.ne.jp/e-novels/hyoron/genkai/017.html (限界小説書評|前島賢)
- http://www.so-net.ne.jp/e-novels/hyoron/genkai/015.html (限界小説書評|更科修一郎)
- http://www.so-net.ne.jp/e-novels/hyoron/genkai/012.html (限界小説書評|渡邉大輔)
そもそもセカイ系って、「美少女との恋愛」+「とりあえずスケールでかくしとけ」という単純な思考に起源があるんではないですかね、と。(中略)
しかしこのラインで考えてみれば、社会性のなさというのは単に説明下手な技巧の問題(*)とかに還元できるのではないでしょうか。世代論も面白いと思いますが、発生論も面白いと思います、ということで。
(*) 説明を避けるために裏の世界を用意して「凄いんだよ!」に正統性(legitimacy)を与えるというか。
id:REV さんからの間接的コメント。
セカイの中のある種の閉鎖系では、ある種セカイ系的な状況は発生します。しかし、その外側をキャラクター、そして読者が認識していれば、それはセカイ系とは私は考えません。ピーターパンも、舞シナリオもこれですね。
http://grev.g.hatena.ne.jp/REV/20060816/p1