ラノベ/ミステリー/キャラクター小説としての《戯言シリーズ》

 文学研究科での研究会に参加。西尾維新を題材として修士論文を書こうとしている院生から論文構想を聞く。その内容について触れるわけにいかないので,私が用意していったコメントを――
 《戯言シリーズ》はライトノベルである。……と前置きしたら「そうなの?」と言われたので補足しておきますが,新城カズマが『ライトノベル「超」入門』(ISBN:4797333383)において提示した「ライトノベルは〈ジャンル〉ではなく〈手法〉である」という着眼点からすれば,イラストを前面に打ち出した売り方をしている本作は,装丁を捉えてライトノベルであると言って構わないだろう。より慎重になるならば「《戯言シリーズ》の半分はラノベ成文で出来ています」とか。

 そして,《戯言シリーズ》はミステリーでもある。作中で人が死に,How/Who/Whyといったレヴェルで謎が与えられる。
 で,《戯言シリーズ》の特質とは「ミステリーの手法としてキャラクター小説の性質を利用していること」ではないだろうかと思うん。
 伊藤剛は〈キャラ/キャラクター〉という概念を提示したけれども,これに沿って考えてみてはどうだろう*1。すなわち,作中では〈キャラ〉と〈キャラクター〉が[一対一]に対応していない。滅びうる生命体としての〈キャラクター〉と,名前・容貌・性格によって識別される〈キャラ〉とが[多対多]の対応関係になっている。そこを[一対多]のように装ってみせたり,不在のキャラクター(φ)に対して〈キャラ〉が適用されるといったところで繰り返しトリックが仕掛けられる。本作において人物の入れ替わりが頻出することにつき,このようなキャラ/キャラクターをめぐる“ねじれ”に着目してみてはどうだろうか。
 付言すると,《戯言シリーズ》はライトノベル的ではあるけれども,これを素材にした(エロパロではない)本格的な二次創作は困難を伴うのではなかろうか。本作は〈キャラ/キャラクター〉の連関を切り離して〈キャラ〉を遊離させることが構造的に見て難しい。その点,特権的な位置に立つのは,二つ名でしか呼ばれない語り部の「いーちゃん」と,そのパートナーたる「玖渚友」である。この両名は〈キャラクター〉としての性質が極端に削ぎ落とされ,〈キャラ〉的な設定によって構成されているように思われる。
――という趣旨のことを述べてきました。

*1:なお,伊藤の『テヅカ・イズ・デッド』(ISBN:4757141297)はマンガ論として組み立てられているため,〈キャラ〉の識別にあたっては視覚的な面に重きを置いている。〈キャラ/キャラクター〉のフレームを,文章によって表現されるキャラクター小説に適用するに際しては概念の組み替えが必要になるだろう。けれど,自分で書くわけではない論文へのコメントなので,放言するに留めておく。うにー。