多田俊介監督 『劇場版“文学少女”』

 切羽詰まっている状況なのですが,これだけは早い内に観ておきたい!と思い,『劇場版“文学少女”』を観に行きました。

この先,ネタバレを含みます。
 劇場で配布されていたチラシの裏面に主要登場人物の紹介がありまして,名前の出てくるのが「天野遠子」「井上心葉」「琴吹ななせ」「芥川一詩」「姫倉麻貴」「竹田千愛」の6名。それでもって,あらすじ紹介に,

遠子の「おやつ」の為に設置した「恋愛相談ポスト」に一通の手紙が…。

と記載されていたならば,原作第1巻『死にたがりの道化(ピエロ)』を骨格にして構成するのだろうな,と予測を立てて劇場に向かうのも無理からぬことだと言えましょう。

 ――違った。
 千愛ちゃんは,序盤で早くも“要らない娘”になりました。
 麻貴先輩に至っては僅か2カット。登場させなくても良かったのでは?
 話の筋は第5巻『慟哭の巡礼者(パルミエーレ)』だったわけです。や,確かに《“文学少女”シリーズ》としては最も重要な巻ですから,このエピソードを中心にしようと制作者側が企図するのも当然でしょう。でも,だったら「美羽」を話の中心に据えることにして腹を括って欲しかった。
 すなわち,削ぎ落としが不十分なために,ストーリー展開においては3人のヒロインが並び立つという現象が起こってしまったわけです。しかも,登場の多い順で言えば「美羽 > ななせ > 遠子」という印象。それなのにラストは“文学少女”をめぐるエピソードの大団円たる最終巻『神に臨む作家(ロマンシエ)』に繋がるものだから,妙な感じ。原作では「美羽との訣別」であった場面が,劇場版では「遠子を選択」へと差し替えられてしまったために,観ていても主人公たる心葉の心の動きが分からなくなります。もともと劇場版であるために尺が足りないところにきて,出演シーンの配分が重要度に比例していないので,話の焦点が歪んでしまったように感じます。

 そうすると,購入特典がもらえるからという理由でとらのあなへ挿話集の第3巻を買いに行き,特典しおりはどれにしますか?と問われて咄嗟にななせを選んでしまう者から致しますと,
「おい,心葉,直前に女の子2人がホワイトアルバム(引っぱたきあい)していたのを目撃したのなら,ここは身を挺して乗り込んできてくれたななせに惚れるところじゃないのか? っていいうか,ななせ,お前も上映開始3分でデレるな! お前は自らが記号的ツンデレキャラであることを忘れたのか!?」
とツッコミたくなるわけです。
 *    *    *
 さて,ここまでは劇場版として構成したときの難点についてでしたが,以下は小説(ライトノベル)を映像(アニメ)に変換することについて。
 思うところ,原作たる《“文学少女”シリーズ》本編の妙味は,

  • 1) 古今東西の名作文学をモティーフとした構成を採っているところ,
  • 2) ミステリーの作法を導入し,叙述トリックを用いて展開が行われること,
  • 3) 結末において“文学少女”たる天野遠子が探偵役を演じ,モティーフとした文学作品の読解を披露して謎解きに導くこと

――という3点にあるものでありましょう。このような構成であるが故に,原作ではモノローグが重要な位置を占めます。それがアニメでは,上手く活かされていなかったように感じます。例えて言うなら,キョンの独白が欠落した『涼宮ハルヒの憂鬱』であるかのような物寂しさ。作中,テロップを流した場面があったのですが,そここそ《言の葉》によって紡ぐべきところだろうに…… と思ったわけです。上述の3要素のうち〔2〕と〔3〕が弱いとなると,「『ゼノグラシア』だってアイマスの一環だよね」と思って納得しなくてはなりません。
 もうひとつ演出に関して。言ってしまうと美羽役は平野綾なわけですが,配役ははまっているものの,終盤になると演技が過剰に感じました。モノローグに該当する箇所では,もっと感情を抑えた方が場面に相応しかったのではないか,と。
 なにぶん歪なくせに奇蹟の様な采配によって成り立っている原作だけに,そのまま映像化したら悲惨なことになるでしょう。ただ,それにしても――と惜しまれるところが多うございました。ものすごく楽しみにしていたというのを差し引いてみても,主に構成の面で難点が多くあり,残念なことに高くは評価できません。たぶん思い入れのある原作読者の方にこそアラが見えてしまう造りです。でも,遠子先輩が動いて喋っているのを観られたのは嬉しかったん。一本に詰め込んでしまうなんて勿体ない,というのが率直な心情。叶うことなら前後編なり三部作で,さらに欲を言えば1クールのシリーズとして観たかったなぁ。