まあだだよ

 バレンシアの中心、市役所広場に面してフィルモテカという劇場があります。ここでは世界各地の映画上映を精力的にこなしていまして。昨晩は黒澤明監督の『まあだだよ』だったので、観に行ってきました。クロサワといえば「世界の」という枕詞が付くくらいですからスペインでの知名度も高く、大勢の人が詰めかけておりました。
 主人公は、内田百輭先生。ご存知ない方のために説明を加えておくと、名随筆家として知られる作家でいらっしゃいます。昨秋、氏の作品『御馳走帖』を読んだときに感銘を受けまして少しばかりご紹介しております(id:genesis:20031125#p2)。百輭先生ユーモアあふれる文章を書き、人を魅了してやまないお人柄を持つことは保証します――って、私では信用ないか。先日読んだ京極夏彦狂骨の夢』においても、人に接することを徹底的に嫌う主人公・関口をして「唯一会ってみたいと思う文人は、かの百鬼圓先生*1 くらいのもの」と言わしめるほどなのです。

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 本作は、おおむね三部構成。(1)独逸語教師の職を辞し、文筆業に専念することになった太平洋戦争中の話。(2)戦争が終わって新居を構えた時期。迷い込んできた猫が姿を消して悲嘆する随筆『ノラや』の頃。(3)終幕。最初のシーンから17年を経た晩年(ちなみに、百輭先生がお亡くなりになられたのは1971(昭和46)年で、そう古いことではありません。)。
 率直に言って「悪くはないけれど、名作にはなれない映画」と感じました。際立ったストーリーがあるわけでなく、ほのぼのと、ゆったりと流れていきます。他よりも重きを置いていた(つまり長かった)第1回摩阿陀会*2 のシーンに、「黒澤明の視点からみた内田百輭」像が現れていたように思います。飲食の場面が延々映し出され、ビールが飲みたくなりました(笑)
 話がずれますが、一緒に観ていた人と意見交換していて一致した「日本の嫌なところ」は、宴会の場でありました。一体何かというと、歓談中だというのに「乾杯!」の声がかかると全員がそれに倣うところ。列を組んで踊るというのもありましたが、こちらは軍国主義を彼ら自身が皮肉っているというふうにも取れるので置いておきましょう。杯の傾け方や酌の仕方など、何気ないことですが日本人の集団志向というのが現れていたように感じました。統率されることに馴れていないスペイン人と過ごす会食に比べると、異様と言ってもいい光景です。
 小学校低学年の時期を海外で過ごした児童が日本に帰ってきた時、とまどいを感じる(疎外される)のは給食の時なのだそうです。「いだだきます」の声がかかる前に食べ始めてしまうのだとか。欧米流だと、改まった場でも無い限り、全員に食事が行き渡るまで待つという習慣はありませんからね。合衆国(US)の軍隊で号令とともに食べ始めるのを見たことならありますけど。そもそもスペイン語には、「たんと召し上がれ」という言葉(Que Aproveche)はありますが、「いただきます」に相当するものが存在していませんし…… 実際私も、留学したての頃、いつ食べ始めてよいのかのタイミングがわからず困ったものです。
 映画に戻ると、弟子の役を演じた所ジョージがはまり役でした。黒澤明の才能を見せつけられたのは、空襲で焼け残った僅か2畳の小屋にカメラを固定し、わずか数秒ずつの描写で季節の移ろいを表してみせたところ。それこそ絵に描いたように美しい秋と冬でした。
 総括。黒澤明の遺作ということですが、老熟した監督による老いの描写が見物でありました。あと、内田百輭の随筆は面白くてたまらないので、味わい深い文体で編まれた文章を是非お楽しみあれ。

*1:百鬼圓=ひゃっけん=百輭

*2:まあだかい、誕生日会の呼び名