崩れ

 人の持つ時間は有限。しかして世の中には無尽蔵とも思える書がある。さらに、私に与えられた経済資源は限りなく乏しい。よって、何を読むかという選択をしなければならない。そのふるい分けの方法には様々であろうが、私はある一点に着目して決する。書名である。数百頁に及ぶ本文を、たったの一行にまとめるのは至難の業。しかし、その労苦は書物を上梓しようとする全ての者に等しく課せられているので、競争条件としては平等。しかも、本文を開いてみる必要がないので、選定にかける時間も少なくて済む。

 「△△必勝法」といったあたりは、棚から取り出してみる価値もない。偶然の出会いを求めているときに、手にとって装丁を見るのは危険ですらある。表紙買いしてみたものの、羊頭狗肉とは斯くの如きものであったか――と感じ入った経験は、萌え同人誌に手を染めたことがある者なら誰しもがお持ちのことであろう。

 さて、古書店でのこと。文芸書の棚を前にして視線を走らせていた私は、久方ぶりの興奮に打ち震えた。それが本書、「崩れ」との出会いである。もし、これが理工学書の棚に置いてあったのなら何の不思議も無い。本書はエッセイなのである。作者は幸田文幸田露伴の娘と言えば御存知の方も多かろう。私にとっては、名エッセイストの父は露伴という作家なのか、という程度の認識しかないのだけれど。

 山岳国ならではの自然現象として存在していながらも認知されていないものを、文学の対象として把握する。それだけでも「崩れ」の存在意義は十二分にあると言って良い。それが幸田文という名手の手によって綴られていることは、あらまほしきこと、この上もない。

 山菜摘みに出かけた著者は、大谷崩れ(静岡県)を見て「崩れ」というものに思い当たる。それからというもの、日本各地の「崩れ」を訪ねてまわり、その眼に写ったものを書き記したのが本作なのである。大沢崩れ(富士山)、松之山町新潟県)、男体山(栃木県・日光)、稗田山崩れ(長野県・北安曇)、鳶山崩れ(富山県立山)、桜島(鹿児島県)。驚くなかれ、この時、筆者は70歳をゆうに超えているのである。

 そして最後に登場するのが、有珠山(北海道・虻田町)。噴火で被害を受けた二箇月後に温泉町を訪問したところで幕を閉じる。つまり、あの雲仙普賢岳火砕流が起こるよりも遙か以前に、幸田文「崩れ」というものに着目していたことにある。しかし、その目は恐怖におののいてはいない。かといって科学者のそれでもない。崩れを「大地の弱さ」として見る、まぎれもない文学者の姿である。

崩れ (講談社文庫) 崩れ