アメリカ素描

 司馬遼太郎アメリカ素描」(ISBN:4101152365)読了。
 歴史小説家と知られる著者が、40日間かけてカリフォルニアと東部諸州を旅をする。そこでの知見をもとに、1985年(昭和60年)の4月から12月にかけて読売新聞紙上に連載された文章をまとめたもの。
 新聞社から渡米の話があったとき、冗談ではないと思ったという。本書は、その場面から始まる。アジアの白地図に光を当てるのは好きだが、アメリカやヨーロッパには興味がない、というのだ。それでも、数年越しで誘いに乗る気になった。しかして、サンフランシスコに着き、司馬が最初に目にしたのはハングル文字の看板を掲げる在米韓国人の店であった。ロサンゼルス滞在中、ふと会いたくなったのはヴェトナム人だという。いかにも彼らしいエピソードである。アジアの諸民族が数千年に渡って繰り広げてきた歴史を丹念に探り当ててきた五感が、北米大陸でも「アジア」を浮き彫りにしようとしてしまうのだろう。
 余談であるが、司馬遼太郎は「日本の歴史の歴史」を変えた人物である。私が学習塾の教壇に立っていた間に、中学校で教える(教わる)歴史は根本的に変わったのである。従来は《政治史》が中心であったところ、今日では《産業経済史》へと置き換わっている。偉人の名を覚えることに必死になっていたであろう三十代以上の世代なら、子供達が菱垣廻船や干鰯といったことを学んでいることに驚かれることと思う。その変化は『菜の花の沖』がもたらしたものであろうことは間違いなかろう。
 そんな司馬の目に、合衆国という存在は「文明だけで成立し、文化を持たないもの」として写る。筆者のいう《文明》とは「普遍的・合理的・機能的で、誰もが参加できるもの」のこと。《文化》とは「特定の集団(=民族)においてのみ通用する特殊なもので、むしろ不合理ですらある」と定義される。
 例えば、日本の《文化》では「貧しさがときに誇りにさえなる」(77頁)。対して米国では

If you're so smart, how come you ain't rich ?
お前がそんなに利口なら、どうして金儲けできないんだい?

という格言に変わる(298頁)。
 文明と文化のどちらが優れているか、そのようなことを考察しているのではない。アメリカというものは《文化=慣習》を持たず《文明=普遍性》だけで成り立っているが故に、20世紀において唯一、地球全体に影響力を及ぼす存在になったのではないか―― 本書は一貫して、この仮説を検証することに費やされている。それは決して、アメリカを持ち上げるのでも、卑下するものでもない。司馬史観とも称される彼なりの哲学でもって、この類い希なる国を計測しようと試みている。
 筆者は、行く先々で人に会い、話をする。その執念たるや凄まじい。人間の観察だけで本書が出来上がっている。もし私が旅行に出た時のことを書き残すと、それは時間と光景の記録になる。
 私は、人間嫌いであることを広言してはばからない。よって、旅に出る時は大抵一人であるし、旅先で話し相手を求めることもしない。小高い場所に昇って街並みを眺め、博物館に足を運んで人類の足跡を観察する。しかして司馬は、その反対を行く。最後の方に少しばかり本音を見せるところがあり、ブロードウェイにも「がまんして立ちよらなかった」と、心残りを吐露している(382頁)。滞在期間40日間とは決して長くはない。私には、観劇のための数時間すら惜しむほど短くはないように思える。だが彼は、もう二度と来ることのないニューヨークで、そこに暮らす人々に会って話すことの方がが、世界最高水準といわれる上演を観るよりも楽しかったのだろう。
 アメリカは何故繁栄しているのか、何故あこがれの対象となるのか。それを、カネやモノではなく、《文明》《文化》それに《自由》という概念を用いて解き明かしてみせる。アメリカという国は、移民を吸収して育った多民族国家であるから、参加しやすさを風土的に有しているのだと説く。
 司馬は、この掴み所のないように思える存在を「おでん」と表現する。中に放り込めば溶け合ってしまう「人種のるつぼ」ではなく、「さまざまな人種が、オデンのようにそれぞれ固有の形と味を残したまま一ツ鍋の中に入っている」ようだと例えるのだ(188頁)。本書はさながら、ハンペン(WASP)とダイコン(アジア人)とコンニャク(黒人)を、じっくりスケッチした好著、とでも讃えられようか。