若者が《社会的弱者》に転落する

 若年者社会保障に関する研究会の準備。まず1冊目、宮本みち子「若者が《社会的弱者》に転落する」(ISBN:4896916786、2002年)。
 著者は家族社会学の立場から、統計データを用いて現状認識を試みようとする。本書の趣旨は、冒頭にある3頁の「はじめに」で明らかにされている。勘のいい方なら、本書の題名にある《社会的弱者》を見るだけでおわかりになるかもしれない。すなわち、パラサイト・シングル論は「豊かな時代に成長して、いつまでも親に寄生する自立しない若者」と認識することで、扶養世代が若者世代をバッシングするものではないか――というもの。著者は、この問題は歴史的転換点における社会構造的なものであり、若者世代ではなく扶養世代が解決策を講じるべき問題であるとする。
 宮本氏は欧米諸国との比較研究も手がけており、「半人前」の時期が延びていく現象は他国で先んじて発生していることを紹介する。共通する要素は、(1)製造業が衰退して労働市場が悪化して就職が困難になった、(2)職に就くためには高い教育訓練を受けることが必要となった、(3)高等教育を受けるためには親に依存しなければならないが、家族の多様化(事実婚やシングル・ペアレント)や離婚の一般化により、親の保護を受けられない者が増加する、といったものである。つまり本書の視座は、「若者に対する責任を引き受けられなくなった社会が親に責任を返そうとした」ことから来る社会構造の歪みを原因と捉える。問題は、「若者が自立しないから」ではなく「若者が自立しがたいから」生じているのだという。
 続く第2章では、日本の家族関係を教育費から解明しようとする。ここでまた外国との比較研究が紹介され、西欧の福祉国家では学費を自分で稼ぐか国家からの公的支援奨学金)を得ることが通常である。それに対し日本では、高等教育は親が負担するという政策が採られ、年功序列賃金制という慣行は親の世代が経済負担することを可能にした。若者の当事者意識が薄れたことに、単身者向け住宅価格がバブル期に高騰したことが加わって、若者の自立を困難にしたとする。
 さらに心理面では、「大人になること」の定義が変化したことを指摘する。つまり、就職・結婚・出産といったライフコースに乗ることが、必ずしも大人になることを意味しなくなったというのである。この変化は、鉄道と自動車という比喩で表現される。従来型が一本道であったのに対し、多様化した人生の目的の中から《自己責任》で選ばなければならなくなった。これは、親は子供に向かって助言できず、子供の選択に対して社会が責任を負わない仕組みである。
 では、家庭と労働市場と国家から見捨てられると、どうなるのか。欧米諸国では、それが年少者のホームレス化として表れているという。それが日本で顕在化していないのは、南欧諸国(イタリア/スペイン)と同様、家族という緩衝が未だ有効に機能しているからであると著者は捉えている。しかし変化を免れているわけではない。社会が全体的に豊かになると、子供に分配される資源(金銭)は増大し、稼得者(父母)との力の差が相対的に減少する。子供がアルバイトで収入を得るようになると、その傾向は益々顕著となり、親子関係が友達化する。
 そこで本書の結論は、家族を通じた子供の社会化を説くこととなる。つまり、その次の世代で何とかしようというものであり、既に《社会的弱者》となってしまった世代への対応はお手上げ。解決策を本書に期待しているわけではないので、これは致し方あるまい。
 そのうえで2つ、難点を述べておく。まず、現時点で《社会的弱者》に陥っている者が誰なのか、どうも焦点がぼやけている。最初はパラサイト・シングルからはじまった議論が、ステイタス・ゼロ(最近の表現でいうニート)のあたりで拡散している。後半は家族を主軸にした立論になるが、そこでは所謂《負け犬》も本書の範疇に入っているのだろうか? 教育と仕事と結婚は関連しあう問題であるけれど、本書の射程範囲がどこまでなのか掴みづらい。
 もうひとつ気になるのは、結論の是非。第4章で解決策を提示しているのだが、いかにも取って付けたような感が否めない。もっと現状分析に注力して政策論は踏み込まないようにするか、もしくは構造的な変革を要求する大胆な提案をするかにした方が良かったように思う。
 それらを差し引いても、十分に参照する価値がある。いかにも社会学らしいデータ分析をもとに立論されており、印象を理論へと昇華できる。