キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」

 大塚英志物語消滅論』(ISBN:4047041793)読了。三部構成だけれど、第3章は各論ないし応用編。主たる部分は、副題にもある《物語》を扱う第1章と、近代の登場が生んだ《私》の位置づけを論じている第2章。
 第1章では、工業化されうる《物語》の制作において、「作者」はブルーカラー労働者であると説く。すなわち、セオリー(手順)さえ踏めば自動的に物語を生成できるようになった時代では、作者は「アプリケーション」に過ぎないというのだ。このあたりの着眼点が、原作者が本業であると自称する大塚ならでは。
 ここで大塚が述べている「誰でも作者になれる」ということについては、自覚的に行われた実例を挙げることができる。一昔前に話題となった同人誌で、『詩織』というもの。あいざわひろし氏によって漫画化されている*1。初代ときめきメモリアルのエロパロなのだが、原作者の岩崎啓眞(いわさきひろまさ)氏は、1994年に出版された第1巻のあとがきで制作手法について説明している。それによると、フランス書院文庫130冊をデータベースに投入し、パターンの出現頻度で並べ替えを行い、機械的に作り出したのだという。この話を読んだ時には衝撃を受けたのだけれど、それが10年経ってようやく理論化されたということか。
 第2章では、まず明治後期の文壇にさかのぼり、田山花袋『蒲団』や夏目漱石夢十夜』を素材にして、《私》という概念の登場について考察を巡らす。《私》とは演じるキャラクターの1つであり、近時多用される「属性」という見方で把握されるものだという。近代に入って《私》という概念が登場して初めて多重人格が存在しえた、といった指摘は面白い。昨今の「自分探し」という現象も、《私》の属性を決めるという行為の持つ意味との関係で考察できそうだ。
 例として挙げられている作品についての注釈が少ないので、若干の共有知識を要求されるところが難点。キャッチフレーズの付け方も、インパクトが弱い(物語のイデオロギー化といってもねぇ)。だが、内容は平明で、理解に苦しむようなところは無い。随所で東浩紀氏に対する皮肉が(やんわりと)出てくるのだが、一世代上の余裕を感じさせる。