マンガ産業論

 中野晴行マンガ産業論』(ISBN:4480873465)読了。
 漫画を文化ではなく「産業」の1つと捉えて経済的側面から眺め、その成り立ちから構造を紐解いて、反射的に現状を分析しようとするもの。
 本書は「1959年」に起こった現象が、マンガ産業の始まりであり、市場規模が拡大した要因であり、現状が抱える問題点でもあるという説を立てる。では「1959年」に何があったのかというと、少年週刊誌の誕生である。第1次ベビーブーム世代が『たのしい○年生』『小学○年生』といった学年誌を卒業するのに合わせ、受け皿(引き留め策)として創刊されたのだ。彼らが大学生になった1968年は、マンガが産業へと成熟した年。ベビーブーマー達が年を重ねていくのと同時に漫画を読む年齢層の上限が引き上げられていくことで、市場の拡大を成し遂げたのだとする。そして、それ故に、この世代が職業生活から離脱する年齢に到達する2007年を重要な転換期として意識する。
 この立場がはっきりと示されるのが、第1部。まず少年週刊誌が登場し定着する1960年代を論じ(第1章)、それから遡って「ストーリーマンガ」と「戯画」が誕生する1950年代を考察している(第2章)。時系列を外れた組み立ては、産業史としては冒険的。もし小心者の私が類書を書くなら、怖くて躊躇する*1
 明快な《仮説》が本書を支配していることが本書の魅力であり、また危うさでもある。1967年以降については出版科学研究所『出版指標年報』を用い、数値として販売実績データを示しながら論じているので、信憑性は高い。しかし、それ以前の成立期については相対的に立証が弱いので、中野説を批判するなら此処を攻撃することになるだろう(私はしないけれどね)。ともかく、1つ筋の通った《仮説》が体系的に示されたことは大いに喜ばしい。あとは、これを補強していくなり、反証するなりすればいいのだから。
 通読して、著者・中野氏が備える3つの属性が巧妙に作用しているように感じた。(1)1954年生まれであること。歴史を論ずる場合、その時代を生きていたかどうかというのは決定的な差異になる。18年ほど人生で後れを取っている私は、どうやっても埋められない較差。(2)和歌山県出身であること。手塚治虫の全国進出という現象を、「大阪を基盤としていた雑貨屋向け赤本=サブ市場」と「東京に基盤を置く雑誌=メイン市場」という二重の構造から把握している。この絶妙の距離感覚は筆者の育ちにあると私は見ているのだが、うがち過ぎだろうか? (3)7年間の大和銀行勤務。これは説明するまでもない。主観に依拠するのではなく、データから眺めるという視点。
 しかしながら、未来の統計データは存在していない。よって、過去のデータから現在を解明しようとする部分(第7章まで)に比べると、将来展望を論じる部分には異論を差し挟む余地が増えるのは致し方あるまい。特に本書の《仮説》が依って立つところについては、著者が擁護論にまわっているために叩きやすい。
 これまで市場が拡大してきたのは、漫画雑誌が1次的に存在し、その2次利用として各種コンテンツを制作するという構造が背景にあったということはわかる。しかし、それを将来にわたっても継続するものとして考えるのは危険だろう。雑誌へのテコ入れによってマンガ産業を支えるというのは、1つの選択肢に過ぎない。雑誌に対する思い入れが抜けきれないように感じられるところだ(第10章)*2
 同様の指摘は、形態についても言える。これまで紙という媒体を用いてマンガが普及してきたことは、歴史的事実である。マンガが紙面という制約をもとに様々な文法と手法を編み出してきたことも確か。そのことと、漫画がデジタル著作物として流通する可能性とは分けて考えておいた方が良い。筆者は、デジタル時代のコミックとして『ほしのこえ』のようなものを念頭に置いている。そのことが、既存のマンガがデジタル情報としてアーカイブ化されることにより、流通形態が根本から変わっていくことから目を背けさせる要因になっているのではないだろうか*3。どうも筆者には、既存の書店(ないしコンビニ)を通じた物質の流通を所与の前提としている節がある。
 少々難癖をつけてはみたが、本書が好著であることは間違いない。中野氏には敬意を表したい。


▼ 書評

*1:「だから、お前の文章はインパクトが弱い」と怒られるのだけれど(^^;

*2:労働法の分野でも似たような議論がある。18世紀から19世紀にかけて、まず労働組合運動が発生し、それに支えられて労働法の理論が発展してきた。それが、労働組合が停滞することによって集団的労使関係法までもが弱るということに繋がってしまった。そこで学界では、労働組合を支えて奮起・再興させるべきか、それとも組合ではない存在に将来を託すかということを議論しあっている。マンガ論でも、これまでは雑誌によって支えられてきたということは事実認識に留め、将来像は切り離して考えたらどうかということである。

*3:コンテンツの流通をハード面とソフト面に分離させれば、mp3のダウンロード販売のような在り方は、近く起こる変化として現実味がある。蔵書に室内空間を圧迫されている身としては、物質として所持するか電子として保有するかという存在の有り様は切実な問題なのです。