OTAKU : persona=space=city

 NHK教育テレビ新日曜美術館』。「ベネチア・ビエンナーレ日本館の衝撃」。
http://www3.nhk.or.jp/omoban/main0227.html#05
 内容は、アートという側面を強調して構成。「なぜ建築展で“OTAKU”がテーマなのか?」という疑念を払拭すべく努力しているのが伝わってきた。
 ゲストには、コミッショナーを務めた森川嘉一郎。そのため、著書『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ*1 の論旨をなぞるようにして進行。ところがこの著作は実態分析という面が強く、全体を貫く論理が弱かった。そこで、東浩紀動物化するポストモダン*2 の論旨を用いて補強したのではないかと思われる。その結果、「明るい夢の未来」を表象する大阪万博(1970年)と『鉄腕アトム』を起点に置き、それがヴェトナム戦争などによって崩れ去ったのだとして、現実から虚構へという流れを組み立てる。
 で、この辺りについての細かい論説は吹っ飛ばし、大嶋優木の美少女フィギュア『新横浜ありな』を見せながら《萌え》の解説へ。ここで森川は、《侘びわび》《寂びさび》に見られる見立てないし屈折という美意識*3 には、《萌え》との共通性があるとする。そして、オタクの性格は国際的で普遍性を持つが、文化としては日本独特であると解釈している。う〜ん、日本の伝統文化(茶道)と関連づけるのは、かなり無理のあるアプローチのような気がする。その後に続く、《やおい》における「既成のマンガに飽き足らないからパロディへ」という解説も腑に落ちないところ。
http://www.jpf.go.jp/venezia-biennale/otaku/j/aethetics.html (展示パネル)
http://www.dnp.co.jp/artscape/exhibition/focus/0404_01.html暮沢剛巳
 後半部は、斎藤環と開発好明による「個室内個室」。レンタルショーケースについては森川の著作でも触れられていた。それをヴェネチア・ビエンナーレでは、実在する18人の「オタクの個室」をミニチュアで再現するという手の込んだ試みに広げている。これにより、趣味や嗜好による空間(=内面の投影)が集合して、アキハバラという都市空間(景観)を変容させたという森川の仮説を立証しようとする。ここで斎藤の発言を注意深く聞いていたのだが、内面が空間に投影されるという森川の視点に乗っかっていることはわかったけれども、『趣都の誕生』の全体をどう評価しているのかは分からなかった*4。今後発表されるであろう著作を待たねばなるまい。
http://blog.livedoor.jp/doesburg_the_2nd/archives/15193763.html
 番組としては、かなり良くできていた。しかし、山根基世アナウンサーが、不慣れな用語につまずく様が何とも痛々しくて見ていられない。あと背景音楽に、ひたすら“KOMM, susser Tod*5 を用いていたのは……。


▼ 追補(2005/03/07)
http://d.hatena.ne.jp/./goito-mineral/20050307#p2伊藤剛氏)
アートではなく、アーキテクチャーとして。ラカンは羅漢へ。

*1:ISBN:4344002873、2003年

*2:ISBN:4061495755、2001年

*3:森川は、この例として、欠けた茶碗を愛でる様を例に挙げていた。

*4:何故ならば、私は森川の着眼点は面白いと思うのだけれど、理論面が弱いと感じている。「街に人が集まる」と「人が街を変容させていく」の関係は、鶏が先か卵が先かと同じようなものだろうから。森川が説いているのは事象の説明にとどまる。そんなわけで、今回の顔ぶれでは、斎藤に内的批判者としての役割を期待している。

*5:新世紀エヴァンゲリオン劇場版“THE END OF EVANGELION”より。邦題は「甘き死よ、来たれ」。