ホラー・ジャパネスクの現在
一柳廣孝=吉田司雄編著『ホラー・ジャパネスクの現在』(ISBN:4787291785)を読む。
「現代社会における〈闇〉の変容を見定める」ことを掲げてシリーズ刊行される青弓社ナイトメア叢書の第1巻。終刊した雑誌『幻想文学』のアプローチを引き継ぎつつ,批評言説空間を構築しようという企図のもとに組み立てられている。
http://www.seikyusha.co.jp/books/ISBN4-7872-9178-5.html
巻末に付されたブックガイドの執筆を,北海道大学大学院文学研究科の院生らが行っている*1。原稿料の代わりに本の現物支給があったというので,メンバーの一人である id:kuroyagisantara から せしめてきた 謹呈いただいた。
http://www.aurora.dti.ne.jp/~takuma/re/sippitu.html
メインの執筆者は,日本近代文学や国文学をフィールドとする研究者。1960年代生まれの人達が多い。そのせいか,精緻に史料分析を行う堅実な作りには好感が持てるけれども,わくわくするような楽しさには欠ける。まぁ,本書のような堅い評論と対置すると,ウェブで発表されている文章の多くは足許がしっかりしていないことに改めて気づかされるわけだけれども。
例えば,奈良崎英穂*2「心霊からウイルスへ――鈴木光司『リング』『らせん』『ループ』を読む」は,執筆された当時の社会状況をていねいに考察している。だが,そこから「怪談は伝染病とアナロジカルな性質を有している」という帰結を(無理に)導き出すことは必要なかったように思われたところ。
率直に評価して,「つまらない」と感じたものが半分ほど。かなり指向性の強い研究書。取り上げられている作品を知らなかったり,このような文芸批評の文法に不慣れだということもあるかと思う。だが,一部の著者が〈怪異〉というテーマを上手く捌ききれていないというのも否めない。
だが,指向が合うものはとても面白い。以下,興味深かったものに絞って挙げていくことにしよう。
▼ 平山夢明インタビュー「新たなる怪異の発生」
平山夢明*3という人を全く知らなかったのだが,大変に興味深く読んだ。
平山 おもしろいのはみんなが「おもしろい」と持ちあげますよね。でも,オーラをくっつけてあげるのが批評の大事な部分だと思うんですよ。(中略)それがないとただの感想になりますから。〔22頁〕
平山 フィクションはデッサン力がいるんですよ。ドキュメンタリーは操作的な演出力がいらないのと一緒です。だからノンフィクションはある種デッサン力はいらなくて,構成力が重要なんですね。〔25頁〕
平山 書くものは,基本コンセプトがドラッグですから,ある種の人に強烈に効くものしか書かないような気がするんです。だから,マスに,みんなに効く大衆薬は作れない。〔35頁〕
平山 一人の人間が何十万人も満足できるものを書けると思っているのがまず間違い,僕は本当に満足してくれる人のために書きます。〔36頁〕
平山 本というのは「読む本」もあれば「持っている本」もあるんです。(中略)「持ってるだけでいい本」はある種お守りですから(後略)
一柳 そういう意味で売れてるんですね。
平山 いま相手にしている読者は,鬱状態の社会にいる人たちですからね。〔36頁〕
▼ 高橋明彦「起源のない富江と中心のないうずまき――伊藤潤二の描線・コマ・単一世界」
「伊藤作品の奇想天外さにリアリティを付与しているのは,絵の力であり,因果の非完結性である」ことを解き明かすマンガ評論。
前者については,その理由が緻密な描線と明確に意味を与えられたコマによって成り立つ〈十分に圧倒的な画力〉にあることを,幾つかの図像を引用しつつ,描線とコマ割りに着目して述べる。後者については『富江』を題材に取り上げ,終わらない構造を持つ物語と,「無限定な永遠の現在に生きるシミュラークルである」登場人物とが,「われわれの世界の実感」とパラレルな関係にあることを述べている。
劇画的な作風を持つホラー漫画についての分析であり,手塚治虫的ではない文脈で論じられる〈リアリティ〉として興味深いものであった。また,表現論とストーリー構造論を1つの評論の中で等価的に展開しており,かなり珍しいアプローチではないかと思う。これについては,マンガ評論を志向する方々の意見を聞いてみたいところ。
▼ 吉田司雄「ゆらぐフレームの内外――『八つ墓村』の現在形」
横溝正史『八つ墓村』は,「そのまま映像化するにはいくつかの困難を抱えたテクスト」である。その困難を乗り越え,これまで9度に渡って映像化されているのだが,それぞれの相違について述べ,それらの違いがもたらすドラマについて物語る。短いながらも,きっちりと見どころ紹介をこなす。