秋田孝宏 『「コマ」から「フィルム」へ』

 映像・表象文化論講座*1の院生と読書会。秋田孝宏(あきた・たかひろ)『「コマ」から「フィルム」へ――マンガとマンガ映画』(ISBN:4757101325)について討議する。2005年にはマンガ論についての著作が相次いで上梓されたが,そのうちの1冊。著者は,漫画や映画の企画展を繰り広げている川崎市市民ミュージアムの職員であり,日本マンガ学会の理事を勤める人物。

ところが本書への注目度は驚くほど低い。書評を調べてみたのだが,きちんと読み込んだうえで言及しているものが中々見当たらない。

あらすじ紹介については宮本紹介が詳しいので,そちらを参照するのが良いだろう。両者とも好意的な評価を加えているのだが,本書は理論的な問題点を幾つか含んでいるように思われる。そこで,ここでは批判的な検討を行い,そのうえで本書の意義を論じてみることにする。


 本書は全11章で構成されているが,大まかに3つのパートに区分することが出来るだろう。

  • 【第一部】 欧米のマンガ史&マンガ映画史 〔第1〜4章〕
  • 【第二部】 日本のマンガ映画史 〔第5章,第8章〕
  • 【第三部】 マンガ理論 〔第6〜7章,第9〜11章〕

 第一部については,丹念に史料分析しており素晴らしいの一言に尽きる。特に,ヨーロッパとの比較においてアメリカの状況を浮き彫りにしているところは興味深い。コミック・ストリップ(comic strip)についての研究は,本邦初の偉業と讃えられて然るべきものだろう。このパートについては参加者一同が絶賛。
 第二部については,やや難ありというところ。欧米についての歴史研究を展開する第一部に比べると,日本についての分析は目が粗っぽいのだ。惜しまれるところではあるが,理論的な不備ではないのでひとまず措く。
 問題は第三部に集中する。それは

  • (1) 竹内オサムというレンズによる偏光 
  • (2) 小津映画をめぐる捩れ 
  • (3) 日本文化特殊論

である。
 まず(1)だが,マンガにおける「映画的手法」につき,164頁以下では竹内オサムが先行研究として著していた「同一化技法」を用いて説明し,

同一化技法を可能にする構造上の特徴を両者が根底のところで共有していることになる

との結論に至っている。しかし,ここで参照されている竹内の理論は,伊藤剛id:goito-mineral)が『テヅカ・イズ・デッド』(ISBN:4757141297)の第4章(161頁以下および208頁以下)で批判している部分である。伊藤の場合には「竹内憎し」という感情が先立ってしまって(笑)文章が荒れているため混迷を来していたのだが,竹内理論を使って沈着に論を進める秋田の文章を読むと《同一化技法》論は何かがおかしい。腑に落ちない。おそらく,映画とマンガとは共に《同一化技法》というツールで分析できるのは正しいのだとしても,「竹内オサムが説く同一化技法」に不備があるように思われる。
 マンガ論が捉えている「映画」像が歪んでいるということは『ユリイカ』2006年1月号(ISBN:4791701429)を契機に生じた対話で図らずも明らかになった事であったが,これと同種の問題系であろう。

  1. http://d.hatena.ne.jp/hanak53/20051228/1135704808鷲谷花
  2. http://d.hatena.ne.jp/izumino/20060103/p1イズミノウユキ
  3. http://d.hatena.ne.jp/hanak53/20060105/1136454336鷲谷花
  4. http://d.hatena.ne.jp/izumino/20060106/p1イズミノウユキ

これまで映画とマンガの接点に位置していたのは竹内オサムだけだった,というのが本書での問題状況を生じさせた原因であるのかもしれない。現時点で必要な理論化作業は,映画・映像を専門とする側から見て竹内理論を点検することではないだろうか――と,院生のK君を焚きつけてきた(その気になっていたので,近いうちに論文を書いてくれるかもしれません)。
 (2)は,第9章において齟齬が生じていること。映画のショットとマンガのコマを比較するにあたり小津安二郎作品を用い,小津映画をもとに「映画的手法」を論じている(174頁)。しかし,果たして小津安二郎に映画全体を代表させて良いものなのだろうか? 秋田にしても小津映画に「もどかしさ」があるとしているが(161頁),それは「マンガから映画を見た」ために喚起された印象なのではなく,「映画の中でも特異な輝きを放つオヅ」のせいではないだろうか。特殊なものから普遍を論じようとしている危険性を指摘しておかねばなるまい。
 (3)は第11章での論旨(235頁以下)。「動きを犠牲にしたアニメ」が受け入れられたのは「日本文化に潜むもの」が影響を与えているとし,その背景的要因として歌舞伎や能の存在を指摘している。いや,それだと,日本で育った日本人しかアニメを楽しめないことになってしまいます。そんな大層なことではなく,僕らは『鉄腕アトム』にリミテッド・アニメの楽しみ方を教えてもらった――というだけのことではないでしょうか。これについては手塚治虫の功罪を論じる中で触れられている,稲増龍夫の回想からうかがえることです(153頁)。


 とまぁ,『「コマ」から「フィルム」へ』のマンガ論に関する部分については難点があります。しかし本書は非常に重要な示唆を与えており,十分に参照すべき価値があります。それは映画からマンガを眺めることで明らかになる《時間》の流れです。
 伊藤剛が提示した分析ツールに「フレームの不確定性」があります。しかし伊藤は〈紙に描かれたもの〉を出発点にコマ構造の理解を進めていったため,『テヅカ・イズ・デッド』に言う「フレームの不確定性」とは《空間》把握のための概念になっています。すなわち紙の縦横,X軸とY軸という意味でのフレーム。伊藤は「時間継起性」という別の概念を用いてマンガの中の《時間》を見ています。
 それに対して秋田は,映画を出発点にマンガを見ているので《時間》からコマに着目します。加藤幹郎の提唱する「愛の時間」を援用し,「漫画の静止した一コマにどれだけ視線を持続させるか」という点からコマの関係を見ているわけです。

マンガの原稿用紙の二次元は,空間でもあり時間でもある。 
秋田・203頁 

 してみると,「フレームの不確定性」で論じうる領域は,発案者の伊藤が示したものに留まらないのではないでしょうか。秋田の理解を組み込んで拡張された「フレームの不確定性」概念によれば,マンガにおける《空間》と《時間》を同時に把握することができそうです。
 とはいえ,いくら分析ツールを組み上げてみても「漫画とは何か」を根源的に問うた四方田犬彦『漫画原論』*2の境地には辿り着けないよね……というのが本日の締めの言葉でした。
テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ 漫画原論