仲正昌樹 『松本清張の現実と虚構』

 文学研での読書会。今回の課題図書は,仲正昌樹(なかまさ・まさき)『松本清張の現実(リアル)と虚構(フィクション)――あなたは清張の意図にどこまで気づいているか』(ISBN:4828412549)。
 清張作品では〈人間〉がリアリティをもっているとされているのは何故か? ということを述べていく。〈清張以前〉のスタンダードであった江戸川乱歩横溝正史の探偵小説との比較をし,舞台が庶民から距離のある特権階級というリアリティの無い「お伽話」の空間が明智小五郎金田一耕助の活躍する世界であったと位置づける。それが,社会構造の変化により旧特権階層と庶民の身分の差が意識の上で希薄化したうえ,「都市住民の匿名性」が高まったこと等により,普通の人の間でも複雑怪奇な事件が起こっても不思議の無さそうな状況が生まれた。そこで登場したジャンルが《社会派推理小説》であったとする〔第1章〕。
 と,なかなか期待させてくれそうな導入。清張作品を読んでいなくとも,楽々と読み進めていける内容だ。
 しかし,第2章以降で展開される個別作品論となると,参加者たちから厳しい評価が相次ぐ。展開されている論旨は,既存の文学批評の手法を清張に当てはめてみたというものが多く,この本ならではの独自性というものが殆ど無い。また,冒頭で掲げた〈リアリティ〉の問題に対して,作品論の箇所では処理されておらず,全体を通しての仮説設定&検証という作業が無い*1
 うまく調理されているので消費的に読むには十分な質を備えているが,斬新な読み方の提示はしていないため物足りなさを覚える*2。先行研究を踏まえていないため文学研究の成果としては弱く,本書は松本清張という信仰を強化する側面の方が強い。何気なく清張を消費していた読者に一歩進んだ読み方を教えるという楽しみ方はあるのだけれど,そのような清張愛読者が2006年現在の地球上に存在しているのかどうか疑わしい。
 そこで議論は,松本清張の業績をミステリー研究の一環として(批判的検討を含めて)評価するという作業をしてこなかった怠慢があったのではないか,ということに話が向かった。「清張の再評価」以前の問題として,きちんと清張を位置づけていなかったように思われる。そもそも社会派推理小説と呼ばれるものが,どのような特質を有する作品群を指しているのかすら判然としない。参加者の意見を募っても,「Why done it?」「同時代への関心」「報われない結末」などが出てくるが決め手を欠く。
 「社会派推理小説」という名称の由来にしても,忘れられた過去になっていた。一世代前の出来事ほど見落としがち。

「探偵小説の新傾向として,社会派とでも名づけるべきものが目立ってきた。松本清張がその開拓者である。」
荒正人(あら・まさと)「文学と社会」『読売新聞』昭和35年6月7日 *3 

▼ 関連

*1:第2章から第7章までは,『松本清張研究』に掲載されたもの。清張好きのための同人誌に載せた文章ということを差し引いても,批判的視点というものが抜け落ちていることは評論書として問題だろう。

*2:もっとも,第9章「天皇制の謎をめぐって」は,かなりグダグダになっている印象を受けた。

*3:荒正人が命名者であることを指摘する文献として,中島河太郎推理小説における清張以前と以後」『国文学 解釈と鑑賞』1978年6月号。