東浩紀 『ゲーム的リアリズムの誕生』 第1章
東浩紀(あずま・ひろき)『ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』(ISBN:9784061498839) を開く。
なんか,随分と沸点が低いです。
大塚英志の著作を読んでいると,《まんが・アニメ的リアリズム》という概念が登場してきます*1。で,岡田斗司夫のオタク世代論では第一世代(昭和30年代生まれ)が「特撮世代」,第二世代(昭和40年代生まれ)が「アニメ世代」であるのに,第三世代(昭和50年代生まれ)の興味対象は「アニメキャラ・ガレージキット・ゲーム・声優」であるとされています*2。そこから発展していけば,「アニメ的リアリズムというのがあるなら当然《ゲーム的リアリズム》も存在するよね」というのは1秒で了承。*3
ですから,概念の提示に関しては新味に欠けます(そもそもの大塚が既に方向性を指し示しているわけですし)。『ファウスト』初出の際に「メタリアル・フィクションの誕生」であったものが改題されて本書に至ったことで,大塚に反駁する東という構図が強まったような感があります。
本書において,《ゲーム的リアリズム》の定義が登場するのは140頁。主たる問題は《ゲーム的リアリズム》とは何か――のはずなのに,概念が出されたところで第1章〈理論〉は終わり。痛烈な肩すかしです。題名で「誕生 〜Debut〜」の話だと宣言されているので,発展についてもで触れられていなくても欺罔には当たらないのですが……。
一応,「メタ物語的な想像力から生まれるリアリズム」の項(140-142頁)に考察が記されているのですが,何度読んでみても腑に落ちません。東は「作品の分析を通して答えたい」と述べています(142頁)が,つまりは《ゲーム的リアリズム》という概念のフレームワーク構築を演繹することはせず,作品群から帰納的に叙述しようとしているわけです。第1章を読む限りでは,《ゲーム的リアリズム》概念は抽象レヴェルでの錬成が不足している段階でしょう*4。
大塚英志を骨格に置いて,柄谷行人と新城カズマと伊藤剛と稲葉振一郎と笠井潔を接いでいっているので,ちょっとした負荷で崩れてしまいそうな危うさを感じます。〈セカイ系〉をめぐる「半透明性」を論じる箇所(96〜102頁)は東が独自に考えた部分が多いためか文章に気迫がこもっているのですけれども,これは《まんが・アニメ的リアリズム》の話だし……。
第2章〈作品論〉は,日を改めて読むことにします。
▼ 関連資料