加藤雅彦 『ドナウ川紀行』

 加藤雅彦(かとう・まさひこ)『ドナウ川紀行――東欧・中央の歴史と文化』(岩波新書ISBN:4004301890)を読む。
 ドイツのシュヴァルツヴァルトに発し,東進して黒海へと注ぐ大河ドナウ。その沿岸にある8か国を,歴史,文化,民族,産業といった種々の観点から叙述する一冊。
 「ドナウ沿岸8か国」という数字で気づかれると思うが,この位置づけが既に歴史の中のものである。第8章は「ソ連」である(河口付近の町イズマイルは,ソ連ウクライナ共和国に位置すると紹介されている)。本書が上梓されたのは1991年10月であるが,その年の12月にはソ連が崩壊,翌92年にはチェコスロヴァキアが解体。その後,泥沼と化したユーゴスラヴィア情勢については,内戦が始まったことが告げられているのみである。
 では本書が古びてしまったかというと,そうでもない。むしろ,16年前の時点における近現代を振り返るのに格好の素材なのだ。著者はNHKの特派員をしていた人物。本書のエピローグでは,前々からあったドナウについて書きたいという気持ちが,ベルリンの壁の崩壊によって決定的な動機となったのだ,と述べている。

 「もしこの本が,この歴史的な時代の到来を待たずして,世に出ていたならば,ありきたりのドナウ紀行に終わったであろう。」

と述懐するが,まさに著者自身が指摘するアクチャリティ(今日性)こそが本書の面白さ。冷戦期における西欧‐東欧という分断構造が綻びを見せかけ先行き不透明な時に,長らく歴史の基層をなしていた《ドナウ世界》が再び甦るのだと見抜いていたのは卓見である。
 語り口は平易でありながら叙述の幅は広い。《鉄のカーテン》の向こう側を実地に見分していた人ならではの実感に基づく記述も随所に交えられており,興味深いものであった。