鮎川哲也 『黒いトランク』

 文学研究科での読書会へ。今回はミステリーの古典を読もう!の一環で,鮎川哲也(あゆかわ・てつや)の代表作であり,実質的デビュー作である『黒いトランク』を。昭和31年に世に出たもの。何でも,2月14日は鮎川の誕生日なのだそうで粋な計らいですねと或る参加者が発言したものの,選定者は気づいていなかったという(^^;
 事件が起こるのは昭和24年12月。汐留駅に届いたトランクから腐臭がするので開けてみると,死体が出てきた。荷物が送り出されたのは福岡県。送り主であった近松千鶴夫は,兵庫県で溺死体となって発見された。事件は,犯人の自殺とされて終わるかに思われた。しかし,千鶴夫が英字新聞を持っていたことに妻,由美子は疑問を抱く。大して勉強熱心でもなかった夫が,自殺の前に英語を勉強しようなどと思うはずがありません――
 調べを進めていくと,関係者が同じトランクを持っていたことが判明する。かくて,東京と九州の間を,2つのトランクはどのように移動したのか推理が展開される。
 もう,これは社会史の史料に属する作品になっていますね。朝鮮戦争勃発前夜,麻薬の密輸ルートだとか,引き揚げ者の暮らしぶりとか,もはや注釈が無くては読解しがたいものになりつつあります。当時の世相を感じるという目論見で読むのも,なかなか楽しい。そのうちIC乗車券が普及する頃には,「切符」を使ったトリックは未来の読者に通じなくなる日が来るんだろうなぁ。
 本作が「トラベルミステリー」という評価を受けていないのは,旅先での情景が描写されていないからだと思っていたのですが,「いや,列車に乗っているのは死体ですから!」との発言で納得。被害者視点のトラベルミステリーは嫌だよなぁ。
 この本作に関する限り,《本格》対《社会派》という構図で位置づけることが困難。証拠が「後出し」で出てくるので犯人を当てるという読みはできない。あと,若松駅二島駅で偶然性に頼るトリックの要素があるし……。他方,末尾に犯人の独白を載せているところなどは動機に腐心していることが見受けられる(納得はいきませんでしたが)。これを戦後ミステリが未だ分化していなかった時期の姿としてみれば乙。
 『黒いトランク』は種々の改訂版が出ており,参加者が持ち寄った各版を突き合わせてみると,特に脚注に違いが見られた。差異については創元推理文庫有栖川有栖北村薫戸川安宣が触れているところであるが,書誌学的に分析してみると面白そうではある。