菜の花の沖 (5)

 司馬遼太郎菜の花の沖』第5巻(ISBN:416710556X)、読了。
【書評】
 書名を「ロシア史概説」に変えた方がいいんじゃないかなぁ。高田屋嘉兵衛、ほとんど出てきません(笑) 考えてみると、日本人の常識(=中学校で習う歴史)にロシアはほとんど登場しません。ロシア革命に至る説明として「農奴」が出てくる程度。かえすがえすも、司馬遼太郎が教科書を著さなかったことが悔やまれます。もし日本史なり世界史の教科書を書いていたならば、歴史を楽しく学べたでありましょうに。ロシア史を知るために、これほどの好著は多くないでしょう。
 かなり勉強になったので、要点をまとめておくことにします。

  • ロシアに統一国家が成立したのはかなり遅く、9世紀にキエフ公国が成立したのが最初である。その、遅れたロシアをヨーロッパ化したのは、ピョートル大帝(在位1682年-1725年)。なんと名前を変えてアムステルダムの造船所にもぐりこみ、自ら船造りを学んだ。(53頁以下)
  • ピョートルは、まずポーランドに学んだ。ポーランド人の主体はロシアと同じスラヴ人である。しかし、宗教が決定的に違っていた。ロシアはギリシア正教ロシア正教)を国教としていたのに対し、ポーランドのそれはカトリックであった。即ち、ポーランドカトリックの世界でおこる科学、芸術、社会思想をも共有していたということである。ロシアが地理的にはヨーロッパにありながら異なった文化圏にあるのは、カトリックが持つ情報伝播力が東方教会によって遮られていたことによる。(101-02頁)
  • コサックとは「離れ者」の意。地主貴族の重税に耐えかねて逃亡した者達が、集落を組織したもの。懐柔策により皇帝(ツァーリ)に対して忠誠を誓うようになった。コサックはシベリアをわずか60年で東進し、原住民を武力で脅し、黒テンの毛皮を税として巻き上げた。(61頁以下)
  • 皇帝は農民から収奪した金で、西欧の知識人を雇った。その例として、デンマーク生まれの探検家ベーリング(1681年-1741年)がいる。(82頁)
  • ポルタヴァの戦い(1709年)によりロシアはスウェーデンを敗った。この際に得た大量のスウェーデン人捕虜(技術者)がシベリアに流され、オホーツク沿岸の文化を向上させることとなった。(79頁以下)
  • 帝国の基礎が確立するのは、女帝エカテリーナII世(在位1762年-1796年)の代。この時期、シベリアで鉱物調査をしていた人物に、キリル=ラクスマンがいる。フィンランド人なのかスウェーデン人なのかは定かではないが、ともかく非ロシア人。なお「ロシア人」であるか否かは、ギリシア正教の洗礼を受けているかどうかで判断するものである。彼は漂着した光太夫の面倒を私財で見てやった。その次男アダム=ラクスマンが光太夫の送還という名目で日本を訪れることになるが(1792年)、弱冠26歳であった。というのも仰々しい使節を仕立てると、失敗したときに恥をかくためだとか。(95-129頁)
  • この時期も、ロシアは北太平洋で毛皮獣を捕っていた。そのロシアにとっての問題は、食料。シベリアを陸路で輸送すると小麦粉の値段は16倍に跳ね上がる。日本から食料調達することを望んでいたのであり、侵略は考えていなかった。もっとも、それを日本が知るよしはなかった。(139頁以下)
  • アレクサンドルI世の代に入った1803年、再び日本使節を送ることにした。海軍大尉にして実務家であったクルーゼンシュタインの提案によるものである。しかしながらそこに、毛皮財閥「露米会社」の利益代表であるレザノフが乗っかった。思惑を異にする2人の間には、不和が生じた。そして、江戸幕府がロシアとの交渉を拒絶した。何しろ、交易をしたいのはロシアの一方的な利益のためであり、日本にしてみれば接近してくるロシアに恐怖しか持たなかった。なお、この返事を持っていった人物は遠山金四郎影晋で、町奉行で有名なあの人(遠山金四郎影元)の父である。(148-199頁)
  • この時期、長崎オランダ商館長を努めていたのは、ドゥーフ(Hendrick Doeff)という人物である。彼は19年の長きに渡り日本に滞在した。しかしながらその任期中、オランダそのものが消滅するという事件があった。1810年、ナポレオンの侵攻を受けてフランスに合併されたのである。それからの3年間、地上には出島にだけオランダの国旗がひるがえっていた。(179-181頁)
  • レザノフは、カムチャッカクルーゼンシュタインと別れ、サハリンへ向かった。この地を領有して基地とし、日露貿易をしようという思いつきからである。そしてこの軽率な人物は、思いつきを即座に実行に移した。1807年の4月、レザノフに雇われた海軍士官が率いる武装船は、エトロフ(択捉)島のナイホ(内保)を襲撃し、掠奪行為をはたらいた(フヴォストフ事件)。(263頁以下)
  • ロシアは北太平洋の軍事力を補強するため、表向きの理由を「学術調査」ということにして軍艦をオホーツクに回航させた。艦長は、ゴローニン(Golovnin)である。1811年7月、クナシリ(国後)島で測量をしていた彼は、米/魚/野菜を調達すべく交渉のために上陸したところを日本の仕掛けたワナによって捕縛された。加害者(ロシア)にとってみればフヴォストフ事件は些細なことであり、被害者(日本)が外敵に対し緊張状態に陥っていたとは考えが及ばなかったのである。日本としては、背信的な手段を用いてで先の事件の真相を問いただしたかったのである。(314頁以下)
  • その連鎖に絡め取られたのが高田屋嘉兵衛その人であった。同年8月、囚われたゴローニンら7名の安否を知る人物を捜していたリコルド元副艦長は、クナシリに立ち寄ろうとした嘉兵衛を港の沖合で襲撃し、彼を連れて立ち去ったのである。(これは第6巻冒頭のお話)。

http://www.tabiken.com/history/doc/F/F018C100.HTM(旅研:ギリシア正教
http://www.tabiken.com/history/doc/G/G327C100.HTM(旅研:ゴローニン)