Cha^teau Rouge

 渡辺淳一シャトウルージュ』(ISBN:4163204202)読了。
【書評】
 駄作。
 性的交渉を拒絶されて1年になる夫は、妻を色事師の手に委ね、夫を見下す妻への復讐を企んだ――。筋書きを要約すると、こんなところだろうか。430頁弱になる書だが、この設定は30頁ばかり読み進めれば明らかになる。
 さて、このような状況にある男女を舞台に登場させると、結論は2つしかない。(1)新たに良好な関係をもたらすか、(2)破滅に至らしめるかのどちらかである。
 選択肢(1)ならばどうだろう。男の視点で語られるこの話において、妻が夫の要求に応えるようになるというのは、あまりにも都合のいい希望でしかない。これがポルノであれば、最も好ましい結論である。女が男にかしづく様が描かれ、性欲にたぎった男の欲望は大いに満たされるからだ(ハーレクインにしても、男女の関係が逆転しているだけで物語構造や目的にさほど違いはない)。
 予想された結末は(2)破局である。その見込みを裏切られるような展開があれば、この小説には意義がある。推理が間違っていることを期待しつつ、エピローグまで読み終えた。そして残念なことに、私は自分の見立てが的中したことを確認したのである。
 渡辺淳一は、『シャトウルージュ』を書き始めてしまった時点で失敗していたのだ。もしレアージュがフランス退廃文学の金字塔と讃えられる小説を著していなければ、本作は画期的であったのかもしれない。だが、本作の舞台作りは『O嬢の物語』そのものではないか。この名作の存在を知らずに本作が書かれたとすれば、無知を恥ずべきである。
 思うに、文学を評価する尺度というものは、今までに無いものを創出したかどうかで測られるべきものだろう。どんなに欲情的にエロティシズムが綴られようとも、既存のものの再配置でしかないなら、それは文学としては無価値である。音声と映像を伴い、より直截的かつ刺激的なアダルトビデオにでも任せておけばよろしい。小説としてやるなら、マルキ=ド=サドを超える意気込みをみせない限りSM文学としての価値はない。
 望まれていたのは、セックスレスという現象に真正面から立ち向かうことである。少なからぬ現実は(3)世間に向けて夫婦を演じ続けているのだと思う。想像するに、このもろく崩れそうな均衡を描写することの方が為しがたい。だが、本作の主人公(夫)は、不自然なようでいて安定した関係を崩してしまった。確たる目的も持たずに。
 いったい渡辺淳一が『シャトウルージュ』で何を書き記したかったのか、皆目見当がつかないのである。本作が、セックスレスに対して真剣な眼差しを持っていないことは断言できる。それを疑問に思うなら、日常的に性交渉を持つ夫婦を主人公に置き換えてみると良い。筋書きに変わりはないはずだ。それは取りも直さず、本作の主題はセックスレスにあったわけではないことを意味する。
 私は、主人公が調教室へ飛び込んでいく(あるいは帰ってきた妻に真実を打ち明ける)勇気を持っていることを、そして心の融和が展開されることを秘かに期待していたのだ。軟弱者を臆病のままにしておくことに、何も難しいことはないのだから。これが妻を主人公にした話であれば、また違ったかもしれないが(ますます『O嬢の物語』に近づいてしまうけれど)。小説から恋の手ほどきを受けたいなら、頬を赤らめ胸ときめかせてコバルト文庫を読む方が、邪(よこしま)なことに気をとられずに済むように思える。
 作者から執筆前に相談を持ちかけられたならば、私はこう伝えたでありましょう。何も貴方が苦労して小説を書くことはありません、みのもんた氏と瀬戸内寂聴女史の連絡先を載せてみてはいかがですか――と。



http://www.counselingservice.jp/lecture/lec21.html(カウンセリングサービス)
http://www.medical-tribune.co.jp/ss/2000-5-25/bn3.htm(医学新聞)