姑獲鳥の夏

 京極夏彦のデビュー作『姑獲鳥の夏』読了。

姑獲鳥の夏 (講談社ノベルス) 文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)
 「なに? これ?」
 ただひたすら、この未知なるものを前に呆然としました。これが小説の一種であることはわかる。詩集でも写真集でもない。しかしそれ以上の分類ができない。つまり、今までに出会ったことのない新しい代物でした。いろいろと読んできましたが、このような衝撃は数年来ありませんでした。よもや、このようなものが存在していようとは……
 私の本業は法律の研究ですが、何をやっているのかわからないと言われます。いちばん多い作業は、裁判例の比較分析。何か事件が起こったとき、それに近い事例を過去の記録(判例集)から探し出してきて、2つの事件の差分を取ります。で、そこから法則性を抽出して判例法理に仕立て上げるわけです。そんなこともあって私は、新しいものというのに弱い。相対的に比較すべき対象物がないと考察がうまくいかないので考証が「弱い」ことと、既存の概念で計測できないものを前にした興奮への耐性に「弱い」という二重の意味で。
 題名になっている姑獲鳥(うぶめ)とは、伝奇に登場する存在。普通は「産む女」と書き、下半身を地に染めて赤ん坊を抱えた姿で描かれる。曰く、お産で死んだ女の無念という概念を形にしたもの(49頁)。この妖怪をモティーフにして展開される、「ミステリィ仕立て」の小説。これをミステリーと呼ぶのは、違うような気がする。私立探偵は出てきますけれど、「見えないものが見える」という奇々怪々な人物だし、それに何より捜査をしない。ストーリー・テラーを引き受けるのは、精神を病む三文文士こと関口。で、そこに神主で拝み屋かつ古書店の主である京極屋が探偵役を引き受ける。
 で、消息を絶った男についての事件が持ち込まれます。しかし、謎が提示されるからといってミステリーとは限らない。本作に比べれば、叙述トリックなど見破るに容易い。人間の《知覚》作用そして《認識》作用そのものが仕掛けになっている。言うなれば、活字を目で追い脳で考えるという読書活動そのものを題材にしているともいえます。冒頭から長々と展開される会話は、無闇に知識をひけらかしているのかと思いきや、収束に至るための下地であったとは。事件についてのあらましを述べることは出来ても、本作の要訳は出来ません。
 はっきりわかったことが一つ。本作は小説における大きな潮流を産み出した始祖であります。
http://sv2.humeco.m.u-tokyo.ac.jp/~minato/cgi-bin/bookres/0409145447.html(中澤港さん)
http://www.aurora.dti.ne.jp/~takuma/book/book2000-5.html#ubumeぐうたら雑記館