すべてが空である

 小泉八雲日本の心講談社学術文庫ISBN:4061589385)読了。20の小片を集めた随筆集です。少しばかり読み進めたところで、一体いつ頃書かれたものであろうと調べたら、およそ1890年代に綴られたものでした。一世紀は経っているのに、まったく古さを感じさせません。これが日本の「原風景」だよなぁ、と思わせる場面が至る所に出てきます。それは私が実物を目にしたことのない、稲穂がそよぐ田園や、丁稚が走り回る商家の店先であるのに。
 作者は、またの名をラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)。1850年ギリシャで生まれた英国人。日本人(小泉節子)と結婚し、1896年に帰化。1904年に亡くなっていますので、今年は没後ちょうど100年になります。
 少しばかり「日本」に対する思い入れが強すぎ、美化しすぎているという嫌いはあります。それが、惚れ込んだ国のことを母国(英語圏)の人達に理解してもらおうとする意気込みの反映だとすれば、もっと肩の力を抜いてもいいんですよ――と言いたくなるほど。あ、このエッセイ、もともとは英語で書かれたものを日本語に翻訳しているのですよ。
 鋭さと暖かさが伝わってくるのは何故だろう。大学で西洋文学の講義を受け持っていたという知力の故なのか。はたまた、ギリシャ・イギリス・日本と、帰るべき場所を複数持った環境のなせる技か。そうではあるまい。これは、多数の書を読み、諸国を見聞しさえすれば、誰もが書けるような代物ではない。
 例えば東洋には見られない「擬人化」ということについて、彼は次のように説く。曰く、西洋人は自然を擬人的に観察しており、女性美の理想を通してしか世界を関知できないのだ、と。釣合・均整・幾何学的対称といったものに対する偏愛も、そこから生じるとする。そうして彼が賛美しようとするのは、驚くなかれ、襖(ふすま)に描かれた模様の不規則性なのだ*1
 仏教や神道に対する博識ぶりにも驚かされるが、その描写力には舌を巻く。次に掲げるのは、輪廻転生について思いを巡らせる場面である。

目に見え、手に触れ、量ることの可能なもので、一度も知覚を持ったことのないものがあるだろうか。喜びや苦しみに一度も おののき ふるえたことのない原子、一度も声を挙げたり話したりしたことのない大気、涙になったことのない露――いったい そういうものがあるだろうか。
「塵」より引用

こんな擬人化、とても出来ませんよ……

*1:「永遠に女性的なるもの」より