最後の将軍

 司馬遼太郎最後の将軍」(1967年、ISBN:4167105659)読了。
 司馬は《あとがき》で、こう語る。政治家を小説の主人公にして成功した例は、わずかの例しかない、と。そして、徳川慶喜という人は政治家であるが、すでに歴史の時代に移ったことに勇気づけられて小説にしたのだ、とも。
 しかし、この《迷い》が本書の中にたゆたっているように思えてならない。どこが、というのを上手く示せないのだけれど、叙事的であって叙述的ではない。おそらく彼にしてみれば、大政奉還というものは過ぎ去った過去ではなかったのだろう。明治維新とは、文明の外縁部(薩摩・長州)から発生したクーデターである――と私が言うぶんには影響力が無いから気楽だけれど。それで死んだ人が二世代前くらいの近親者だったりすると、過去のことだと冷静に話したり聞いたりしてはいられないでしょうね。
 さて、本書で司馬が描く「徳川慶喜」は、歴史主義者である。即ち、後世の歴史に汚点が残ることを避けることが、行動原理となっている。聡明であり過ぎるが故に、どのような評価を将来において受けるかを見通せてしまうのだ。彼にしてみれば、大政奉還とは「政権という荷物を御所の塀のうちに投げ込んで関東へ帰ってしまう」(226頁)妙案として写った。過去にこだわらず、現在において周囲の支持を得られるかすら気にしない人物であったなればこそ、であろう。
 大久保利通西郷隆盛の要求に対し、ただひたすらに恭順であり続ける。それにより、人々に「判官びいき」されて記憶されることを慶喜は願ったのだという。このテーゼは、江戸幕府の十五代目将軍という肩書きから想像されるものと、あまりに遠い。光の側にいた坂本龍馬を描く作品『竜馬がゆく』の執筆直後に本作が書かれたことが興味深い。