A I R

 劇場版AIRを観てきました。
 うぐぅ。これって、本当に“A I R”?
――というくらい、ゲーム(ASIN:B00005ON3V)とは別な作品。この先ネタバレになるので、ご注意を。

ゲーム版
http://key.visualarts.gr.jp/(以下、麻枝准AIRとする)
劇場版
http://www.air2004.com/(以下、出崎統AIRとする)

 まず、どこが違うのかを確認しておこう。
 思うに麻枝AIRの特徴は、(1)重層的なシナリオ構成、(2)位相を変えての反復、(3)救いの与えられない結末、といったところにあるでしょう。
 つまり、(1)第1部《神尾観鈴×国崎往人》シナリオと第2部《神奈備命×柳也》シナリオは、現在と過去において重なり合う関係にあり、(2)第1部に於いて生じている不可解な事象は、第2部で過去編に触れたプレイヤーにとっては理解可能、(3)だが、奇跡の発動は第3部《晴子+そら》における視点の転換と時間の逆行に留まり、ハッピー・エンドは提供されない――ということなのですが。なお、これらの特徴を有していることと、作品の評価とは別の話です。私は、人の死で感動を煽り立てることには感心しないので、原作の結末については良い心証を持っていません。
 では出崎AIRは、どう処理したかというと、(1)断片的に翼人伝説を挟むことにし、(2)は一切組み込まない、という構成にしました。すなわち出崎AIRは、シナリオの基本骨格からして麻枝AIRとは異なるものだと言えます。
 原作を持つ作品に付きものの問題として、二次作品をどのように位置づけるのかは常に付きまとう問題です。評価の高い原作に忠実に沿った二次的作品は、大失敗がないけれど、独自性を持たないということが欠点になる。それを良しとしないなら(殊に時間の制約がある場合に)要約ではなく本歌取りを試みるのは順当なところであり、醍醐味でもある。しかし、それなら元歌の趣向や発想の良いところは受け継がなくては。本歌取りの好例としては『耳をすませば』を挙げます。近藤喜文監督によるアニメ(ASIN:B00005R5J9)は、柊あおいによる原作漫画(ISBN:4088535154)と同名ですが別物といってもいいくらいに違う。しかし、それは悪い意味ではない。変化していることが素晴らしかったのだから。
 では、AIRに関してはどうかというと、原作からエッセンスを抽出することに失敗していた。時間的制約が問題なのではない。そもそも出崎AIRは、原作に対する本質的理解を欠いている。具体的には、翼人にかかった呪いが「恋をしてはならない」というものに変えられてしまったため、麻枝AIRでの「空に封じられる」とか「あるはずのない痛みを感じる」という主題に関わっていた部分が捨てられてしまった。翼人伝説と観鈴を繋ぐものが弱いため、原作を知らない視聴者には神奈備命が出てくる理由が十分に理解できない。何より、原作では美しく示されていた

Summer continues to where as well
She is waiting in the air

が暗喩として成り立たなくなってしまったのは痛恨。
 個別のキャラクターでいうと、もっともあおりを食らったのは神尾晴子だろう。「日中は働き詰めで家におらず、帰ってくると酒をかっくらう」という行動は、麻枝AIRでは観鈴との関係において重要な伏線であった。それが出崎AIRだと、陽気なケロちゃんに堕落。「そら」に到っては、哀れ、ただのカラスでしかない。
 原作の持ち味が失われている。かといって本歌取りをしているわけでもない。パロディとして楽しむには勇気がいる。
http://cgi.ngy.3web.ne.jp/~myakita/index.shtml(メッセージ・ローダー)