世界の終わりの魔法使い

 西島大介(にしじま・だいすけ)『世界の終わりの魔法使い――Ça ne fait rien』(ISBN:4309728464)を読む。
 なんかヨクワカラナイ。いや、ストーリーはわかりやすいのだけれど、作品の位置づけがヨクワカラナイ。
 非立体的かつ記号的な絵柄。
 水平・垂直に裁ち切られた空間(コマ)。
 冒険、勇気、がんばる、信じる。
 これらの要素は、ここ数十年に渡るマンガ表現の試みを意図的に否定しているように見える。この作品からは、フェティシズムを喚起させるものを感じ取ることは難しい。端的に言うと、萌え要素やキャラ属性といった尺度から逸脱している。それは新しいというよりも、むしろ手塚的なるものへの回帰をイメージさせる。だが不思議と、古いという印象は持たない。仕組まれたノスタルジー、とでも言うべきだろうか。
 「世界」や「影」といったものを通じて表現される《実存》の認識を、どう読み取ればいいののか。かれこれ3回ほど読み返しているのだが、未だにそれがヨクワカラナイ。
 作者からの模範解答は“San Fairy Anne”(どうでもいいさ)だが……


▼ おとなり書評
 今回は自分の言葉でうまく表現できなかったので、少し多めではあるけれども、上述の疑問に対する回答を提示してくれるのではないかと思われる5箇所を掲げておく。

とても透明。どこにも引っ掛かりがなくて、ぼうっと読んでいると何にも気づかないまま最後までストンと落ちてしまいそうな感覚。
http://d.hatena.ne.jp/Erlkonig/20050303/1109779903

いわゆる「セカイ系」のモチーフを過剰に氾濫させることで、逆説的にセカイ系への批評を試みようとする態度は、西尾維新の『きみとぼくの壊れた世界』と同一の地平を共有しており、同時に上記西尾作品に対する一つの回答でもある。
http://d.hatena.ne.jp/frigidstar/20050323

これからは漫画でも自覚的なサンプリングが常套になるのかも。
http://d.hatena.ne.jp/inuimu/20050402

村上春樹の世界の終わりが外の世界を感じさせる閉じた世界であったのに比べて、西島大介の開いた世界は外を感じさせない開いた世界になっています。
http://d.hatena.ne.jp/kazutokotohito/20050317#p1

西島大介の評価のされかたは新海誠にちょっと似ているかもな、と思う。
http://d.hatena.ne.jp/yskszk/20050227#p3