『お迎えです。』論

もし緒川千里への好きという感情をあきらめてしまったならば、阿熊幸への好きという感情さえもあきらめてしまうだろうと確信したからだ。(中略)彼にとって「好き」という欲望に忠実であれば、どのような好きもあきらめる必要がないのだ。
http://d.hatena.ne.jp/nomas/20050515/1116140830

 田中メカお迎えです。』を、《欲望の断念》の問題として読み解こうとする分析。このような理解に立った上で、「まだ だめなのかなぁ……」というつぶやき(第5巻71頁)に始まる堤円えんちゃんの内心の動きを解釈している。とても興味深く拝読しました。
 そっか、「ガンスリンガー・ガール」も「極楽送迎」もGSGなのか。そういえば、物語空間の現実世界からの解離度も共通しているよなぁ――というのはさておき。
 その説示には大いに賛同するところなのですけれど、後段については検討を要するように思う。

死者が一様にあきらめているのは死んでいるからだとすれば、生者が欲望をあきらめないことは生きている者の倫理だということになる。

一般論としてはこれで良いのだが、作品論としては補強をしておくことが必要ではないかと感じた。それというのも、本作では「欲望を抱え込んだ死者」という者たち(ゲスト幽霊)が登場するからである。彼らが「この世」から「あの世」へと出立するのを妨げるのは未練(=あきらめられない欲望)。それは時に、表象的に鎖という形を以て描かれる。
 死者と生者の相違は、《肉体という器》を保有しているか否かである。しかしながら、欲望は肉体に結びつくものではない。欲望は、精神(霊的存在)を「この世」に縛り付けるものとして描かれる。すなわち、欲望をあきらめないことは、この世に位置するための十分条件である。
 この理解の先には、欲望をあきらめた肉体というものが浮上する。それは、生きてはいるけれども生者ではないと認識して差し支えあるまい。
 肉体は、生者として欲望を実現するための手段(ツール)である。例えば、第4巻に登場する「白バラの君」もしくは「追試の女王」こと二ノ宮楓は、「……触って みたかったのよ」と言う(97頁)。肉体を失った者は、肉体を必要とする欲望を叶えることが出来ない。それとはパラレルに、死者に対して欲望をあきらめない(実現する)ためには、死者と同質の存在(霊体)でなければならない。えんちゃんが「俺 今の状態なら 幽霊さわれる?」(第5巻127頁)というのは、それを端的に表している。
 そこからすると、上述の命題を次のように修正することで、幽霊を議論の俎上に載せられないだろうか。
 「生者が欲望をあきらめないことは、《この世》に《肉体》を留めている者としての倫理である」
 これにあわせて再読してみましたけれど、『お迎えです。』は、やっぱり名作なのです。

▼ 単行本(1999-2002年、全5巻)

  1. ISBN:4592177460
  2. ISBN:4592177630
  3. ISBN:4592170202
  4. ISBN:4592170210
  5. ISBN:4592170229

追記
http://d.hatena.ne.jp/./nomas/20050518/1116413924 (応答)