モエヨン・クロニクル

 id:SweetPotatoさんによる「『萌え4コマ』歴史・現状・展望」補足」に寄せて。
http://blog.livedoor.jp/sweetpotato/archives/29178186.html
 わざわざ私の名前を出していただき恐縮です。真摯にテーマを追いかける姿勢には敬意を表します。読み手が,それぞれ好き勝手に消費しているだけでは評論活動が意味を失いますので,ささやかながら私からの応援的コメントを送ります。
 私も,『あずまんが大王』が萌え四コマの原点であるという主張に賛同します。萌え4のクロニクル(年代記)においては前史,すなわち萌え四コマが生まれるに至る道のりの中で『ももシス』が登場するものと位置づけています。その理由を,《萌え》の定義とマンガ表現論に絡めて述べておきます。
 良く使われる《萌え要素》という表現は,東浩紀が『動物化するポストモダン』(2001年)で提唱したデータベース・モデルに由来するものです。ここで留意しておきたいのは,東の示したものは「徹底して禁欲的なモデル」であり,性的な意味合いを極力排しているということです。それというのも,『動ポモ』は斎藤環戦闘美少女の精神分析』(2000年)への回答として書かれたものであるからです*1ラカン派の精神科医である斎藤は,欲望(性欲)から《萌え》という現象を眺めます。それを衛生化しよう(セクシュアリティを排除しよう)と試みたのが東である,と位置づけて見ています。
 その斎藤が,あずまきよひこについて興味深いことを述べた文章があるのです。しかも,それまで《萌え》がわからないと言っていた斎藤が,『あずまんが大王』によって「ようやく《萌え》の感情に開眼した」と語っているのです*2。そんな斎藤が萌えたと言っているのですから,そこにはセクシャリティを語る文脈があります。
 斎藤は,『じゃりン子チエ』と『あずまんが大王』に共通点が多いことを指摘します。具体的には「作品世界の構築が,キャラクターの会話を軸にして成り立っている」と言う。そのうえで,『あずまんが大王』の画期的な点は「学園ものの定番ともいうべき恋愛ドラマを一切排除した点」とする。そして,同性集団を恋愛抜きで描くことにより「ドラマの強度は背景に退き,かわって繊細な関係性の味わいが前景化してくる」と述べています。ここで述べられているような特質を踏まえて『ももシス』の構造を考えると,未だ萌え四コマとしての独自性を獲得するには至っていないように思われるところ。
 ちなみに,以前にも紹介した伊藤剛の論考では,『あずまんが大王』と『ぼのぼの』(1996年〜)との相似を述べている*3いがらしみきおが「起承転結からの逸脱」を行って表現上の可能性を広げ,それが「ストーリー四コマ」をもたらしたものとみる。また,そのことがキャラがテクストとの一対一対応的な結びつきを必要としない状態をもたらし,キャラが図像だけでも成立できる状況――伊藤の用語で言えば,キャラの自律化に至ったのだと述べる。それ故,

 「少なくとも『ぼのぼの』以降の四コママンガとは,「萌え」の土壌として適した制度的存在であると考えることができる」

とする*4
 マンガ史を〈表現〉の観点から観測すると,やはり『あずまんが大王』は特権的な立場にあるものと把握すべきではないでしょうか。そして,『あずまんが大王』を原点に置く立場をとったとしても,そこに至る歴史(前史)が否定されるわけではありません。そのことを言うために,二人の論者の言説を引用しました。
 id:SweetPotatoさんは,

 私はオリジナル萌え4コマ作品の原点は「あずまんが大王」にあると考えます。その理由は、この作品が雑誌『電撃大王』で成功したことにあります。

とし,掲載媒体によって性質を推し量ろうとしています。しかし,描かれた作品の内容を見ることでマンガ表現論的に性格づけを考えるということも可能なのではないでしょうか。
 何故かというと,掲載誌が何であるかというのは補助的要素にしか過ぎないと考えるからです。例えば,竹本泉。『さよりなパラレル』のあとがきが象徴的なのですが,第4巻(ISBN:4812450594,1996年)の時点では,最近の仕事の割合は

[少女誌:32%,少年誌:24%,マニア誌:24%,ゲーム誌:4%,その他(ゲームの仕事):16%]

だと,半ば自虐的に述べています*5。でも,媒体が何であろうと,「竹本泉作品=変なの」であることに変わりはないですよね*6。他にも,流星ひかるの作品は一貫して〈乙女ちっく少女まんが〉の文法に則していたりする。
 『ももいろシスターズ』『せんせいのお時間』は,意識的に性的な表現を組み入れています。しかし,それが必ずしも《萌え》であることを意味するわけではありません。私は斎藤による《萌え》の定義に従うのですが,そこでは関係性への同一化がキーワードになり,フェティシズムの一種として捉えられます。してみると,ももせたまみの開けっぴろげな作風は,もともと性欲を満たすことを目的とするポルノグラフィからの援用であるように感じられるのです。

*1:このことは,『網状言論F改』(ISBN:4791760093)所収の「「萌え」の象徴的身分」67頁からも確認できる。

*2:ユリイカ』2003年11月号(ISBN:4791701127) 特集「マンガはここにある」所収 「[作家ファイル]マンガ最前線の45人」131-132頁。

*3:ユリイカ』2005年2月号(ISBN:4791701305)所収 「大阪は『ぼのぼの』やねん。――『あずまんが大王』から見た萌え、四コマ、マンガの現在」

*4:なお伊藤は,『あずまんが大王』を「萌え」の範疇に入れることすら異論があるかもしれない,としている。伊藤は,「これがキャラの魅力,キャラのもたらす快楽にオリエントしたものであることは明白であろう」として,同作品を《キャラ萌えマンガ》,SweetPotato論考で言う《萌え四コマ》に含める態度を表明している(脚注1を参照)。

*5:竹本泉は,講談社『なかよし』でデビューしており,少女まんが家であることをアイデンティティに打ち出している。かつては主人公の性別によって少年漫画と少女まんがを区分することも出来たのだが,社会が中性化した今日では,その分類法が無力化されていることは説明を要しないことと思う。念のため例を挙げておくと,大島永遠女子高生─バカ軍団─』の物語構造は〈少年漫画〉のそれです。

*6:これが新井葉月だと,出自は同じなのに,『コミックハイ!』ではセクシャリティを前面に出した表現をしている。これなどは,媒体による差が感じ取れる例。余談ですが,もともと葉月さんは少女の内面を丹念に描き出す作風で抜きんでいただけに,「少女生理学」を読んでいると狂おしいほどの衝動に突き動かされます。