カーニヴァル化する社会

 鈴木謙介(すずき・けんすけ)『カーニヴァル化する社会』(ISBN:406149788X)を読む。講談社現代新書の表紙は改悪です。
 現状認識については悪くない。しかし,理論化に失敗している。
 冒頭,50頁まではとても面白い。第1章「〈やりたいこと〉しかしたくない――液状化する労働感」は,私の専門領域と重なることもあって,とても刺激的であった。
 ニートNEET)に「働く意志」が存在していないことを手がかりに議論が始まる。鈴木は,これを社会的なトレンドの変化として捉え,「甘え」「意欲」「自身」といった言葉で表される内面の問題として考察する。そして,〈やりたいこと〉が重要性を持つようになったのは環境的な要因の変化によるものであるとし,予期的社会化(期待的社会化)という社会学の概念を提示する。具体的には,会社に入る前の学生時代に,自らが所属していない準拠集団(=社会人)を拠り所として,自身の行動様式を学習・決定していく過程のことだという。それが雇用を巡る社会構造が変化したことにより,「就職に際しての予期的社会化」は困難な選択を強いることになる。〈やりたいこと〉はよくわからないが〈やりたいこと〉を見つけるために頑張る――という論理は自己展開し,ループする。
 加えて,若年層のフリーター状態が継続するのは,親世代の願望が関わっていることを指摘する。すなわち,既得権益として正規雇用に就いている男性の年長世代が,非正規雇用として安い賃金で雇用される若者に「たかる」。就業に恵まれない相対的な弱者たる若者は,恵まれた親世代に「たかる」。こうしたたかりあい構造が若年就業の問題の背景にあると指摘する。
http://media.excite.co.jp/book/daily/friday/005/ 鈴木謙介インタビュー(1)
 本書の問題点は,この次からである。ここで鈴木は,「ハイ・テンションな自己啓発」(=いつか本当にやりたいことを見つけるんだ!)と,「宿命論」(=やりたいことなんて見つからないんだ)とに分断される自己というモデルを提示する。そして,それが第2章で述べる「情報社会における監視」,さらに第3章「自己中毒としての携帯電話」と繋がっていくのだと言うのだが,さっぱり理解できなかった。モデルの構築に失敗しているように思えるところ。
 終章「カーニヴァル化するモダニティ」で,ようやく理解可能な地平へと帰ってくる。ジークムント・バウマンを引き合いに出し,瞬間的に盛り上がる「ハイ・テンションな自己啓発」を「カーニヴァル」と言い換える。そこでは,「感動」は目標の達成に対して与えられる「結果」ではなく,それ自体が「目的」であるようなものであるとし,自己目的化する感動カーニヴァル化の源泉であると説く。
 ――それで?
 著者自らが,瞬間的な盛り上がり=カーニヴァルとして書き連ねているような印象を受ける。意欲が空転を起こしているのではないだろうか。〈カーニヴァル化〉という切り口を示したという点は興味深いのだが,何のための概念提示なのかが不明瞭。