大学院はてな :: 使用者は労働者に訴訟の取り下げを命じうるか?

 研究会にて,モルガン・スタンレー・ジャパン・リミテッド(本訴)事件東京地裁判決 平成17年4月15日 労働判例895号42頁)の検討。報告者は私。
▼ 事案の概要
 被告Y社は、有価証券の売買等を目的とする会社。原告Xは,Yの従業員であった金融アナリスト。
 Xは『週刊東洋経済』2003年9月27日号に『企業のリスクヘッジが阻害されている――間違いを認めない会計士の体質が多くの企業を窮地に陥れる』と題する論考(以下,本件論文)を連名で投稿し,掲載された。その内容は,日本公認会計士協会(以下,協会)が2003年2月18日に発表した「包括的長期為替予約のヘッジ会計に関する監査上の留意点」(以下,本件留意点)を批判するものであった。なお,XはYにおいてフラット為替(包括的長期為替に同じ)の販売に従事していた。
 Xは,2004年4月1日,協会を相手取って個人として訴訟を提起した。その主旨は,本件留意点によりXの営業活動が阻害されたというもので,慰謝料141万円を請求するものである(以下,別件訴訟)。
 同年4月7日,YはXに対し譴責処分を行った。その理由は,別件訴訟の提起によりYの名声等に対し有害な結果をもたらすものであるにも関わらず,Xが,既に受けていた指示に反して,別件訴訟を提起する前に直属上司Aまたは法務部に相談することを怠ったのはYの「行為規範」に違反するというものであった。
 同年4月21日,YはXに対して自宅待機を命じるとともに,別件訴訟を4月27日までに取り下げることを,業務として文書で命令した。Xはこれに応じないことを明言したため,4月26日,YはXを懲戒解雇し,解雇予告手当として年俸の12分の1(183万3,333円)を支払った。同年9月6日,Yは,本件懲戒解雇が無効である場合には,予備的に普通解雇する旨の意思表示を行った。
 本件は,当該解雇の無効確認を求める訴え。会社側は16項目に渡って懲戒解雇の理由付けを行ったが,その中心を為すのは,Xが訴訟の取り下げに応じなかったことである。

▼ 裁判所の判断(1)――懲戒解雇は無効
「別件訴訟の原告は,X個人であってYではないから,形式上は,X個人の行為である。」「Xは,Yから別件訴訟の取下げを命じられたとしても,これに従う理由はな」い。

▼ 裁判所の判断(2)――普通解雇は有効
 「Xは,本件留意点に関する一連の行動として,12に及ぶ非違行為を反復継続して故意又は重大な過失に基づいて行ったもので,規律違反の程度は重大であり,自己の意に沿わない上司の指揮命令には服さないというXの姿勢は顕著かつ強固であるといわざるを得ず,このことは,Xが,上司であるC本部長やB弁護士を小馬鹿にしていることからも明らかである。
 そうだとすると,従前のXの勤務態度に問題がなかったとしても,これら12に及ぶXの非違行為によって,原被告間の信頼関係は,既に破壊され,それが修復される可能性はないといわざるを得ないから,Xについて,雇用の継続を困難とする重大な事由(就業規則(略))があり,客観的に合理的な理由を欠き社会通念上相当であると認められない場合には当たらないというべきである。よって,本件普通解雇は有効である。」

私見
 議論しているうちに,良く分からなくなってきた。
 まず,使用者が従業員に対し,訴訟の取り下げを命じることはできないとすることについては妥当な判断であろう。問題は,普通解雇できるかである。
 この判決には,それとは気づきにくいトラップが仕組まれているので読む際には注意していただきたい(私は見事に引っかかった^^:)。判示では,懲戒解雇の判断要素をそのまま普通解雇に適用している。その1つ1つは比較的軽微なもので,「雑誌に投稿するに際して法務部に見せなかった」とか「社名を出してはいけない場面で肩書き入りの名刺を添えた」といったようなものである。これらを理由として退職金が支給されなくなる懲戒解雇をすることはできないが,信頼関係が破壊されているので普通解雇はできる,というのが裁判所の立論である。
 思わずこの筋書きに乗ってしまったのだが,よくよく考えれば,職務遂行能力が低下しているわけでもないのに,軽微な過失を積み上げたところで普通解雇が正当とされるわけではない。むしろ普通解雇の正否(すなわち,どのような者に仕事を任せるかの判断)にあたっては,「業界団体を相手に裁判を起こすような労働者を雇い入れるわけにはいかない」という使用者の意向を汲むべきなのではないかと思えてきた。
 これによれば,本件のような事案の下では普通解雇であれば容易に認める判断に傾くことになる。使用者に懲戒権の発動を許さないことと引き替えに,普通解雇の正否については緩やかに判断するということは可能だろう。専門的技能を有する自立した《エグゼクティブ労働者》であれば,訴訟を提起することで生じるリスクを自分で判断できるものと考えられる。本件の原告は年間基本給2,200万円であり,その収入に見合うだけのリスクを負わせても良いのではないか。
 しかし,金融派生商品デリバティブ)に携わる人たちは,「年収で1億円程度」だったり,転職して「年収60万ドル」だったりするんですか…… うぐぅ