大井昌和 『流星たちに伝えてよ』

 一般論を言えば,《作品》を通して得られる《作家》の姿は虚像である。《作品》という虚構空間を構築する〈神〉としての作者と,現実世界に身を置く《作家》という〈人間〉は別な存在だ。自伝的作品に作者が登場しても,それは作者という名のキャラでしかない。例えば,1980年代の白泉社系少女まんが(すなわち,大コマでは背景に花を背負えるヒロイン)の描き手である岡野史佳であるが,その実態は野球とプロレスが趣味であったりする。《作品》から得られるイメージを《作家》に照射することには消極的でなければならないと思い知った例である。
 ところが大井昌和(おおい・まさかず,id:ooimasakazu)の『流星たちに伝えてよ』(ISBN:434480886X)の場合,困ったことに〈神〉としての作者と〈人間〉としての作家がだぶって見えてしまう。
 『流星たちに伝えてよ』は,人類が宇宙空間にまで生活圏を広げた近未来を舞台にしたオムニバスである。十年前に起こった月航船の事故を縦糸として,5つの物語が紡がれる。会社の責任を押しつけられた男,内戦で肉親を亡くした少年と片足を失った少女,そして事故の犠牲となった父――。この空間は,理不尽さや失望に充ち満ちている。そこで,ある者は生き続けようとし,ある者は罪を犯し,ある者は心を閉ざす。『ひまわり幼稚園物語あいこでしょ!』に始まり『風華のいる風景』『おとなの生徒手帳』に至る大井昌和のストーリー作品は,生きることに不得手な人物が少しだけ上を向いて歩き出す姿をモチーフにすることが多い。本作は,現時点における大井テイストの真骨頂と位置づけてもいいだろう。ところが各編とも闇があまりにも強く,結末において差し込む光明はまさしく流星の如きか細さでしかない。そんな登場人物達のために救いを探すべく必死にペンを走らせる《作者》の姿が《作品》から立ち上ってくる。
 しかし,作家として努力したことと作品として評価できるかは別物である。端的に言ってしまえば,このマンガの出来は良くない。その原因はストーリーの流れの悪さであったり,整理し切れていないエピソードであったり,あるいは成人女性のデッサンがまずいことであったり。でもそれ以上に気にかかるのは,《作家》が《作品》を突き放せていないこと。《作家》の内面的営みが,そのままに《作品》へと反映されているように感じられてならない。以前の作品にしても作者の性向は現れていたけれども,それでもメッキ処理はされていた。それが本作では,ありのままの“地金”のよう。たぶん,作家としての技術力がついてきたので粗っぽい素材もマンガに仕立てられるようになったことがあるのだと思うけれど,それでもやっぱりモチーフの選択段階で生じた痛々しさ泥臭さは立ち上ってしまう。伝えたいのであろうメッセージが先走ってしまい,表現が追いついていないのではないだろうか。

星は流れる。それぞれの想いをのせて,きらめきながら――。
少しでも…… 大切な人に 言葉が近づくように……
初版の帯より

 よぎるのは,作者が心の裡に重苦しさを仕舞い込んだまま将来にわたって作家活動を続けていけるのだろうか,という過剰な不安だ。『愛人[AI-REN]』を描いた田中ユタカは,《作品》に込めた苦悩が為に《作家》という心身を病んでしまった。そんな前例があるだけに心配でならない。秘かに作者の安息を願う。