ガンスリンガー・ガールの《セカイ》

 http://d.hatena.ne.jp/hajic/20050419 の問題提起を受けて、の続編。次のような書簡が横濱雄二id:kuroyagisantara)氏より送られてきたので、これに応答する*1

kuroyagisantara

 “GUNSLINGER GIRL”のテーマは共同体ではなかろうか。

【本作の構造】
 少女達は兵士になる前に予め共同体から排除されている。最初に共同体の原初形態としての「二人」=フラテッリ(複数形)が少女達に示され、事態の展開に合わせ、それぞれのフラテッリがどのような軌跡で二人以上の多数による共同性へ向かう(あるいは向かわない)のかが描かれてゆく。公社と五共和国派の闘争も同様に共同体の理念をめぐるものと理解できる。一方で担当官達は公社の共同体の理念に対し、自分の周囲の仲間性=パトリアの意識を強く持つ(クローチェ兄弟にとっての妹)し、その意識と公社の理念との闘争すらあり得る(ラバロの事例、彼の正義と公社の正義)。

【愛を描く意味】
 この枠組の中で、まさに「愛」が本作の中心であるということができる。おそらく少女達以外は全て、共同体としてのイタリアを愛している(ドイツ人のヒルシャーでさえも)。けれども、少女達は担当官を愛するしかないのだ。予め共同体から疎外されているのだから。ここで愛で結合するフラテッリそれぞれのあり方を、共同体を参照しつつ明らかにすることができるだろう。

【《セカイ》系との関係】
 小説トリッパー笠井潔による「セカイ」系の概念的整理はここでも有効で、大状況を公社対五共和国派の(国家的規模の共同体理念をめぐる)闘争、小状況をフラテッリたちの愛(少女と担当官)と見ると、少女達には予め中状況(両者の橋渡し)が無いように見える。ところが本作では担当官達の(相互の、あるいは担当官と少女、公社、国家との)状況に対する葛藤(ラバロに代表される)、少女達同士の共同性などが、小状況を相対化する中状況となっている。この点で本作は『最終兵器彼女』や『ほしのこえ』に代表される「セカイ」系とは異なり、小/大状況の分裂を回避する優れた作品といえる。 だが一方で、無国籍者を不法就労させて搾取するという話に過ぎないと見ることもでき、そうすると決して新しい内容があるとは言えなくなってしまう。この批判を乗り越える新しい「愛」を描きうるかどうか、これが本作の評価を決定すると言えよう。

セカイ
日常的で平明な現実にいる無力な少年と、妄想的な戦闘空間に位置する戦闘美少女とが接触し、キミとボクの純愛関係が生じる第三の領域。
セカイ系
私的な日常(小状況)とハルマゲドン(大状況)を媒介する社会領域(中状況)を方法的に消去した作品群。

笠井潔 『社会領域の消失と「セカイ」の構造』*2

genesis

 笠井潔の枠組みは、使い勝手が大変に良い。本作“GUNSLINGER GIRL”のようなストーリー作品の物語構造分析には、またとないツールだ。実のところ私も、寄稿した文章を書きながら「GSGは《セカイ系》に近い問題状況にありながら《セカイ系》になっていない」ことを考えていた。
 佐藤心が、本作を評して「〈人類規模の救済〉という虚構の物語(終末思想)がついえた時代=2000年代における〈救済〉とは何か、この問いに作者はよく答えている」と述べるのも、同様の問題関心によるものだろう*3
 小状況として[ヘンリエッタ‐ジョゼ]だけを捉えらると、これはまさしく「キミとボク」の関係である。中状況(社会福祉公社)に位置するエレノラをして「本当に『ここにいると自分が世界の中心』だと感じますね」(第1巻148頁)と言わせているのは、暗喩としては直截的に過ぎるだろう。ヘンリエッタは、この小状況を維持することが幸せであると感じている。
 ところが、本作が《セカイ系》へと流れていかないのは、パターンの異なる複数の小状況が並立して提示されているからである。これを私は「フラテッロの順列組み合わせ」と表現した。例えば[エルザ‐ラウーロ]は、小状況を確立すべく一方当事者が暴走することで生じた《セカイ》の狂気。[リコ‐ジャン]では、小状況から離脱することの困難さを示す。リコは「もし私なんかを 好いてくれる人がいたら 幸せだな」と述べる。しかし、その幸せへの道筋は彼女自身の手で閉じられ、《セカイ》は自己否定される。一つの作品の中に、《セカイ》の志向と嫌忌とが混交して存在しているのが“GUNSLINGER GIRL”の特質であろう。

 そしてもう一つ、本作が《セカイ系》にならない理由がある。少女達の関係性だ。斎藤環は、物語生成システムを[世界‐会話‐関係]と整理したうえで、恋愛が生じるためには「関係性の描写を狭くする」ことが必要であるとする*4。各々の小状況が歪(いびつ)であるため、単独で閉じた世界になることを困難とし、それが小状況を繋いだコミュニティ(中状況)を成立させている。
 これを指して、本作のテーマを「愛」もしくは「共同体」にあると把握することは間違いではない。だが的確でもないように思える。それぞれは、小状況と中状況を縦横につなぐ結線だからである。両者を含んで本作のテーマを提示するならば、斎藤の用法に従うと「関係性」ということになろう。私は「双方向的な意志の交換」と表現したのだが、不達・不成立に終わる関係性も示されていることに鑑みれば、これも的確さを欠いていたかもしれない。

*1:なお、横濱氏から送付いただいた書簡は、将来的に評論もしくは論考として発表される予定のもののアブストラクトである。

*2:小説トリッパー』2005年春号(ASIN:B0007W9DAY) 所収

*3:ユリイカ』2003年11月号(ISBN:4791701127)128頁。

*4:前掲『ユリイカ』132頁。ここでは、あずまきよひこあずまんが大王』を素材にし、恋愛抜きの同性集団においては繊細な関係性の味わいが前景化してくることを指摘する。