Hiroyuki Kanno

 雑誌『ファウスト Vol.2』(講談社)所収の「菅野ひろゆきスーパートーク・セッション 今こそ語る90年代美少女ゲームの到達点“YU-NO”」に目を通す。
 残念ながら、充実感に欠けます。まず、問題があるのは「編集部」氏。司会に徹すべき役柄なのに、とんちんかんな持説の展開をして流れを乱しているところが数箇所。ただでさえ座談会は進行制御が難しいというのに……
 それと看板に偽りあり。本文15頁のうち、『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』を主題にしているのは四分の一弱。誕生秘話での新しい情報といえば、製作期間が8か月であったことと、現代編と異世界編の関係を作者自身の口から語らせているところでしょうか。
 対談相手である東浩紀氏との絡みでは、次の箇所が興味深い。

 僕としては、ゲームというメディアで出す限りは、ゲーム性にこだわらなくちゃいけないと思っています。(493頁中段)

 (物語作りとゲーム作りは異なる行為ではないかとの東の問いかけに対して)僕はほとんどの場合、まずゲームシステムのアイディアがあって、それに対してどういう物語をくっつけるかという制作プロセスを辿るんですね。このシステムだったら、こんな物語にするとおもしろそうだな……と。物語自体がゲームに従属したものなんですね。(495頁上段)

 さらっと語っていますが、ここに菅野ひろゆき作品が評論の対象となりうる理由が端的に現れています。即ち、菅野が創作を試みているのは、ゲームシステムという体系の構築だと述べているのです。一般に新作として登場してくるものは、「ノベルゲーム」なり「シミュレーションゲーム」という文法を借りてきて作られるものであり、新しい公式を組み立てているわけではない。ただ、そうした菅野ひろゆきにまつわる作品論は既に指摘されているところであって*1、それをクリエイター当人が自覚していることを確認したに過ぎません。もっと掘り下げて話を聞き出して欲しかった、というのは過大な要求でしょうか。
http://shop.kodansha.jp/bc/magazines/faust2/
cf.: id:ityou:20040401

*1:例えば拙稿 id:genesis:20031231