老いたジャンル〈新本格〉から見えてくるもの

 夕方より,文学研でのミステリ研究会に参加。諸岡卓真氏が近く発表する論文「本格のなかの本格について」の草稿を読ませてもらう。内容は,メタ・ミステリ評論(評論の評論)で,『週刊書評』に投稿された批評「本格ミステリ批評に地殻変動は起きているか?」を発展させたもの。笠井潔の著書『探偵小説と二〇世紀精神』(ISBN:4488015190)を足がかりとしている。

 未発表の論考なので詳しく触れるわけにはいかないのだが,差し支えないと思われる範囲で紹介しておく。かつて,笠井潔は次のような批評を著した。

 清涼院から西尾にいたる「本格読者に物議をかもすタイプの作品」を,いずれも本格形式を前提としつつ,形式から逸脱する傾向が共通していることから ここでは便宜的に「脱本格」,略して「脱格」系と呼んでおくことにしよう。
笠井潔本格ミステリ地殻変動は起きているか?」 探偵小説研究会編『本格ミステリ・クロニクル300』(ISBN:456203548X)所収(2002年)

ここで〈脱格〉系に該当するものとして挙がっているのは,舞城王太郎佐藤友哉西尾維新らである。この[本格‐脱格]という二項対立,換言するならば[新本格ファウスト系]という対立の構図が持つ意義について問うのが諸岡論文の主旨。
 京極夏彦森博嗣西澤保彦らが登場した1990年代後半,彼らの出現は〈構築なき脱構築〉であると笠井は把握し,本格ミステリが〈キャラ萌え〉にさらされているとした。この時期,分水嶺は京極にあったのだ。ところが〈京極以後〉から〈清涼院以後〉へとパラダイム・チェンジが起こったことにより,新たな系譜の始まりは清涼院へとシフトする。それに伴い,かつては新本格から排斥されていた京極らが,今度は新本格へと取り込まれることになる。

 具体的にいえば、京極に代わって、清涼院が「本格読者に物議をかもすタイプ」の「起源」として「発見」されているのだ。そして「起源」の変更に伴って、1990年代後半に「本格」の仮想敵とされていた「京極以後」の作品、作家たちは「本格」の内側にあるもの(すなわち、それ以前の「本格」と何かしらの連続性、同質性を持つもの)として再配置されている。
前掲・諸岡書評

このシフトを考察するのが諸岡論文。その先の紹介は論文が公刊されるのを待つことにして(探偵小説研究会が出す本に載る予定とのこと),代わりに討論の中で出てきた雑談を披露しましょう。
 ジャンル分けというのは,文学における形而上的な問題なのではなく,市場における差異化ではないのか。周辺領域と越境交配することに生まれた新種を,どの分野の市場が囲い込むのかがカテゴライズの正体なのではないか―― そんな話が出てきました。
 つまり,既存の作品とは持ち味が異なるものを書く20代の青年作家が出てきたところで世代間格差が認識され,40代の年輩者達が「こっちにおいでよ」と手招き競争をしているだけなのではないのか*1。「新本格ミステリ」と呼ばれているものは,1960年代生まれのオジサンたちが書き,読み,楽しんでいる〈ジャンル〉だという現実的状況がある。
 結局のところ「本格であるか否か」というのは,サッカーに例えればオフサイドラインの細かな線引きしているに過ぎない。これでは1980年代,SFが衰退していったのと同じではないか。一方,有力選手はフィールドの外側,タッチライン間際にいる。そんな若手作家を新本格は競技場の外に追い出してしまっているのに対し,取り込むのに成功しているのは純文学グループでしょうね。
 美少女ゲームでも「××はノベルゲームではない」といった排斥的カテゴライズが行われるようになりましたが,老いを迎えたジャンルを待ち受ける宿命(fate)なのかもしれません。ライトノベルもそろそろ?

*1:ここでもまた,1970年代生まれの30代は疎外されているわけなのですが……