美少女ゲーム年代記: 2004-2006「月は満ち,ひぐらしが鳴く」
/* プロットの初出は http://d.hatena.ne.jp/./genesis/20060406/p1 */
ひぐらし
- 2004年夏に出題編が完結した『ひぐらしのなく頃に』(2002-04年,07th Expansion)が同年の秋頃から爆発的な人気を呼ぶ。
- 自動発生した〈祭り〉。「同人出身」のシンデレラ・ストーリー
- http://hw001.gate01.com/karzu/column/higurashi02.html (かーずSP: 「ひぐらしのなく頃に」が僕等に与えてくれたもの)
それでも〈美少女ゲーム〉はゲームである
ポルノ性を捨象した『ひぐらし』は「エロゲー」ではない。キャラクターよりもシナリオが前面に出てくる『Fate』を「ギャルゲー」という枠組みの中に入れることも若干の躊躇を覚える。しかし『Fate』も『ひぐらし』も〈美少女ゲーム〉というプラットフォームが無ければ成立しなかったであろう。むしろ,両作品にも残されているシステムの構成要素こそ〈美少女ゲーム〉が歴史的に獲得してきたゲーム性の本質ではないか。
- クリック動作によるプレイヤーとシステムの一体感
- 選択するという責任,選びようがないという無力感
- シナリオ進行の管理
- 繰り返すこと,やり直すこと
関連資料
■ プレイヤーだけが知っている
ゲームでしか表現できない特性というのは、ゲームは似たような状況の話を複数回読むことが当たり前とされているというあたりから考えられるのでは?(中略)
似たような話を複数回読むっていうのは、その話が最終的に一つの話に還元される一要素としてではなくて、あくまでそれぞれ独立した話ままであるってあたりがポイントです。
http://d.hatena.ne.jp/./simula/20061016/p1
■ ギャルゲーのゲーム性は物語を損なう
ギャルゲーの選択肢というのは極端に言えば次のようなものだ。「ヒロインAかBのどちらかを選べ」
ここでプレイヤーは好きな女の子を選んで話を進めていくことになる。でも、ちょっと待って欲しい。ここで何も選べないことこそが物語の楽しみだ。小説なんかでは読者が何も選択できないからこそ、「なんでそこでAを選ぶんだー!」と七転八倒したり「やっぱりBだよな!」と狂喜乱舞するわけだ。だから面白い。だが、自分で選べるというのは、その醍醐味を捨ててしまっているのと一緒だ。
「選べることはゲームの楽しみだが、選べないのが物語の楽しみ」である。ストーリー物のギャルゲーはこの隙間の変なポジションにいると思う。
http://d.hatena.ne.jp/./psb1981/20061020/1161345115
■ ナラティブ論
ゲームが物語であるか否かといった議論の段階はすでに過ぎており,ゲームが物語を生み出す装置としてどのように設計され,機能しているかが現在の論点である
増田泰子(武蔵野大学 現代社会学部講師)
http://www.4gamer.net/news.php?url=/news/history/2006.09/20060901234149detail.html
■ あるヒロインが助かると、他のヒロインは助からない?
- 同一世界解釈/確定的過去共有
- 多世界解釈/遡及的過去形成