映画『エコール』 ―― 19世紀末という文脈の消失

 ルシール・アザリロヴィック(Lucile Hadzihalilovic)監督作品『エコール(Ecole)』を観る。シアターキノでは,今週で上映終了。
 悪くはないのですけれど,褒めるのも難しいです,これ。
以下,内容に関するネタバレを含みます。
 物語の筋は,年端のいかない少女を社会から隔離して寄宿舎生活を営ませつつ数年を過ごし,初潮を迎えて〈女性〉としての商品価値が出てきたところで出荷されていく――というもの。もっとも,直截な性的搾取の描写はないし,隠喩に留められているところも多いので,少女の肉体美(特に脚)を映し出す映像作品として鑑賞していたのではそれと気づかないかもしれない。
 ストーリーは「塀に囲まれた森」に着いたばかりの最年少者イリスの視点を中心にして始まる。物語内部に視野を留めおく限りにおいては決して悪くはないのですが…… いかんせんプロットが古い。建物や調度品,それに衣装などは1800年代中葉のもので揃えられており,それだけならば懐古趣味で作り上げられた空間であると捉えて眺めることもできる。しかしながら,プロットそのものが19世紀そのままなのはいただけない。すなわち,少女達を商品化するために付与されるものがダンスなのです。時代考証をしたくなるところ。

ミネハハ

 確認のため原作にあたると,フランク・ヴェデキント(Frank Wedbkind)が『ミネハハ(Mine-Haha, or The Corporal Education of Young Girls)』 を著したのは1888年。それならば話は分かります。パリのモンマルトルにキャバレー「ムーラン・ルージュ」が開店したのは1889年のこと。女性が脚をさらけ出すだけでもエロティシズムを存分に感じられたという時代に本作を置いてみるならば違和感はありません。*1
 しかし,2004年になって映画化するのはどうして?
 シェークスピアのように時代劇としての鑑賞を期待されている作りではないし,当時の時代状況をありのままに写し取ったわけでもない。原作に忠実といえば聞こえはいいかもしれませんが,現代化作業を欠いての映画化であるために,時代考証(より正確には,現在において映像作品化することの意義説明)に失敗しているとの印象を拭えません。モチーフそのものが古すぎて,フェミニズムを通過した後の時代の作品としては映画化すること自体が疑問です。それでも,本作は原作が描かれた当時そのままの時代設定における架空の空間というならば納得できたのでしょうが,半端にリアリティがありますし,何より《外の世界》を描いている結末で齟齬を来してしまう。
 この学校(エコール)の維持にかかる経済的負担にまでなると,ファンタジーとして理解しなければならなくなります。毎年,少女1名を(高級商品として)身請けに出し,恒常的には少女4〜5人を舞台に上げることで興業収入を得る――としても,それで50ないし60人の生活にかかる費用を賄えるのだろうか? このあたりは原作から改変があったようですが,それが為にに不自然さが出てきたような感があります。

 原作の解釈によっては不吉な背景を匂わせる,ネガティブな要素は直ぐに排除しました。私はその神秘的な部分を、むしろネガティブな全ての要素から開放する教育を与える様なユートピアとしてとらえました。この学校は天国であり,同時に刑務所でもあるのです。ただ、たくさんの謎が残ります。ヒロインの一人が旅立つ際でさえ,一切の謎が解かれる事はありません。そして依然として地下の世界があり,学校の下を列車が通り,小さな奇妙な劇場が存在するわけです。
監督インタビューより引用

 本作を「少女の脚を愛でる映像叙事詩として観る限りにおいては悪くない。強烈な印象を残す場面が無い代わりに,評価を損なうような画面も見あたらない。しかし,見終わった後に連れと会話しようにも「綺麗な絵だったね」で終わってしまいそう。さらに,少しでもセクシャリティの歴史的文脈に乗せてストーリーを把握しようとすると,途端に考え込んでしまう作品です。
▼ おとなり批評

*1:産業革命の開始時期が50年ほど離れているだとか貴族階級の有無といったことを捨象してしまえば,1890年代は『殻の中の小鳥』や『雛鳥の囀り』が舞台設定にしている英国ヴィクトリア時代後期に相当します。